レコードの歴史はおよそ150年前の1870年代から始まりました。それまで音は、楽譜や書籍などといった ”紙の上” で記録されていました。しかし蓄音機やレコードの発明と開発によって、音をそのまま記録して後世に残す技術が生まれます。今回はオーディオライターの炭山アキラさんによる、レコードの歴史のお話です。

楽譜が唯一の記録手段だった

この21世紀、私たちはスマホとイヤホンさえあれば、世界中の音楽を楽しむことができます。でも、こんな便利な世の中となるまでには、何百年にも及ぶ苦労と工夫、そして数々の発明が折り重なっているのです。

今から150年ほど前といいますから、クラシックではブラームスやワーグナーが活躍していた時代ですね。その頃まで、口や楽器から発せられた “音” を後世に残すことはできませんでした。音は瞬間的に消えてしまうものですから、言葉は文字を使った文学として書籍になり、音楽は音符を使った楽譜という形で後世へ残されたのです。

文学は読めば物語の世界へ入っていくことができますが、残念ながら楽譜は(特別な訓練を受けた人を除いて)それだけで頭の中に音楽が鳴り響くことはありません。それで、いつでも音楽を楽しみたい王様や貴族は、指揮者と演奏者を雇って好きな時に演奏させていました。また、教会は専属のオルガン奏者や楽師、合唱団を擁し、神の栄光を高らかに奏でていました。

録音の歴史の幕が上がる

1870年代、アメリカの発明家トーマス・エジソンは、電話の特許と実用化に際してアレクサンダー・グラハム・ベルに苦戦していました。そんな時、エジソンは薄い膜の中心にペン先を取り付け、しゃべりながら下へ置いた紙の上を滑らせると、ギザギザの模様がつくことを発見しました。これが自分の声を写したものだと直感した彼は、それが再生できたら自分の声が再現できるのではないか、またその媒体、今でいうレコードは、遥か後世にまで内容を残せるのではないかと考えました。

そうして1877年に初めて発明されたエジソン式の蓄音機「フォノグラフ(phonograph)」は、錫箔を巻き付けた円筒の上に針で音溝を刻み付け、同じように針を音溝に沿って動かすことで、溝の振動を読み取って音が再生される、という機構でした。しかしこのエジソンの錫箔レコードには、何回か再生すると音溝が削れて音が再生できなくなってしまう、という大きな問題がありました。

オーディオテクニカ所蔵の蓄音機、EDISION HOME PHONOGRA
オーディオテクニカ所蔵の蓄音機、EDISION HOME PHONOGRA

そこに工夫を凝らしたのは何と、電話の開発競争でしのぎを削ったあのグラハム・ベルです。ベルは錫箔の代わりに蝋を表面に塗布した紙管を開発し、これでレコードの寿命は大きく伸びました。エジソンも自社の製品によく似た方式を採用し、おかげで現在も音が聴けるエジソン式レコードが遺されたのです。

エジソンが自らの蓄音機で最初に録音/再生したのが「メリーさんの羊」だというのは有名ですが、彼は歌が不得意だったので、歌ではなく歌詞の朗読でした。後になって彼自身がその模様を再現した蝋管レコードが、現代に残されています。

今でこそレコードやその延長線上にあるCD、配信音源などはほとんどが音楽に使用されていますが、エジソンはそもそも蓄音機を発明した時、それが何に使われると想定していたでしょうか。

  1. 速記者の代わり。今ではメモリーレコーダーがこの役割を担っていますね。
  2. 耳で聞く書籍。今でいうオーディオブックですね。
  3. 話し方の先生。今ならさしずめ通信教育といったところでしょうか。
  4. 音楽の吹き込み。
  5. 家庭用娯楽機。子供の声やみんなの合唱を記録するような用途でしょうか。
  6. 音の出る玩具。
  7. 正確な発音の保存。
  8. 電話の録音再生

何とエジソンの蓄音機にとって、音楽は4番目の用途だったのです。確かにエジソン時代のレコードは今とは比べ物にならないくらい周波数特性が狭く、ノイズだらけで聴き取りづらいものでしたから、無理はなかったともいえるでしょう。

しかし、そんな蓄音機でもブラームス自身の弾いたピアノの録音が残っていますから、音の記録が残るというのは本当に素晴らしいことですね。ブラームスは録音されると聞いて当初恥ずかしがるそぶりを見せますが、それでもピアノを弾き始めました。そのやり取りまで含めた全容がこの21世紀にも残されています。これが世界の偉大な作曲家が遺した最初の声ということにもなりますから、エジソンの発明がいかに大きなものだったかが分かります。

円筒から円盤へ

蝋管の円筒レコードはそれなりに普及し、それに伴って音楽を収録した録音済みレコードも発売されるようになって、今でいう音楽産業が勃興しました。しかし、音溝を刻んだ円筒は量産するのが大変に難しいため、拡大する需要に応えることが難しく、価格も高いものとなってしまいました。

そんなレコード会社の苦境を助ける発明を成したのは、エミール・ベルリナーです。1851年にドイツのハノーファー王国に生まれ、19歳でアメリカに移住したベルリナーは、働きながら学問を修めます。当時まだベルリナーはレコードと関係のない研究を行っていましたが、その研究による発明が、当時ベルとエジソンが争っていた電話の世界で、ベルが決定的な勝利を収める原動力となりました。

その発明によってベル研究所へ招かれたベルリナーは、蓄音機の開発チームを率いることになります。先に触れたベルの蝋管レコードは、ベルリナーの開発チームによってもたらされたものです。

ベルリナーたちが開発した蝋管レコードは、再生側もより音が明瞭に聴こえる工夫を凝らした機構を伴って、1885年に「グラフォフォン(Graphophone)」という名前で商品化、発売されました。ところが、ベルリナーはもうその頃にはベル研究所を去り、自らの研究所を立ち上げます。そこで発明された「グラモフォン(Gramophone)」という名前のレコードがまさに世の中を一変させ、後世へ大きな影響を残すことになります。

円盤の定着・普及

エジソンのフォノグラフとベルリナーのグラモフォンで最も大きな違いは、”円筒”か”円盤”かということです。円盤は円筒とは比べ物にならないくらい量産が容易でした。

また、エジソンの円筒レコードは表面に対して縦(深さ)方向へ溝を刻んでいく方式でしたが、ベルリナーのグラモフォンは盤面へ横方向に溝を刻む方式を採用しました。そのため、グラモフォンは盤を薄くすることが可能だったのです。円盤の量産性に気付かされたエジソンは、自社からも円盤レコードを発売しますが、彼は縦溝の技術的優位性を疑わなかったので円盤にも縦溝を採用し、そのため出来上がった円盤レコードはグラモフォンの何倍も分厚く、重いものになってしまいました。これでベルリナーの完全な勝利が決定づけられたのです。

ベルリナーのグラモフォン

この大発明により、ベルリナーが立ち上げた「ベルリナー・グラモフォン」という会社は急速に伸び、本国アメリカではビクター・トーキングマシン社という名を経てRCAレコードとなり、英国の支社はEMI、ドイツではドイツ・グラモフォンという会社になりました。どの社も歴史に大きく名を遺す大レコードレーベルであり、数多くのアーティストを擁して、今もなお名演奏の数々を後世に残しています。

円盤という形状と横溝の収録方式は、現在に残るレコードの原型として完全に残りました。音を後世に記録するという最初の一歩はエジソンによって達成され、それは私たちにとってかけがえのない一歩でしたが、ベルリナーの発明がなければこれほど数多くの歴史的名演奏が後世に残されることはなかったでしょう。また、私たちが日常的に楽しんでいる音楽が、これだけの産業規模を持つこともなかったでしょう。2人の天才には、どれだけ感謝しても足りることはありませんね。

レコードの歴史#2に続く

Words:Akira Sumiyama

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