今やオリンピック競技に選ばれるほどの人気と認知度を持つスケートボード。
日本におけるスケートカルチャーの創成期から変わらず、現場、メディアで活躍する2人の対話は、1980〜90年代東京のイメージと空気感を呼び起こす 、そのシーンの足跡を辿る記録の一部。
Side B / 追憶のウィール
Always Listening (以下AL) :お2人がスケートを始めた頃のお話、スポットやエリアなどを伺ってもいいですか?
YOPPI(以下Y):僕は経堂出身で、スケートボードは原宿でずっとしてました。
原宿のストーミー。明治通りのお店の5階からスタートしました。
IMAZATO(以下I):僕も世田谷出身で、ちょっと下の方なんですけど。スケートボードをやってたのは蒲田ですね。それと尾山台にあったマービーズっていうお店にランプがあって。そのお店がランプ作る時からずっと行ってましたね。14歳くらいですかね。
Y:僕も14、5歳からスケートをしていたんですが…ちょっと今の話マジスカ?
マービーズ? 最近マーボーさんと会うんですよ。
I:マジスカ? そのマーボーさんが弟さんとマービーズをやっていたんです。多分元々車屋さんかな? ワーゲンとかの。ガソリンスタンドだった場所が以前は車屋だったんですけど、そこにいきなりランプがあるスケートショップが出来たんです。で、その後そのランプをコンクリにしたいって言ってベニアのランプの上からコンクリを塗ったんです。それ僕手伝ってました。
Y:僕もマービーズに超通ってて、なんならずっといたくらい。
I:僕は元々は家の近所の駐車場で、ブロックにベニアを立てかけてジャンプランプみたいなのを作ったりしてやってたんですよ。そしてセントメリー(インター)の子達と仲良くなってからはずっと一緒に遊んでて。ある日家の近所でスケートをしてたら、星野くんっていう、江川くん(YOPPI氏)も当時から仲良よかった人なんですけど、彼が突然狭い住宅街の路地をバーってこっちに向かって来て、「近くにランプがあるらしいんだけど」って言ってきて。「みんなで行こうぜ」って環八をダウンヒルしながら連れていってもらったのがマービーズなんです。バイオレントグラインドを最初に教えてくれたのも星野くんで。昔DRUNK INJUNSっていう好きなバンドがいて、スラッシャーのビデオにも入ってるんですけど、彼がそのTシャツを着てたので、「それどうしたんですか」って聞いたら、「バイオレントグラインドにあるから行こうよ」って言って連れてってくれて。結構いろんな場所に連れてってくれたんですよ。
Y:僕が星野くんと一緒にストーミーの原宿で滑ってる時は、多分80年代後半ですね。今でこそノーズとテールが同じだけ長さがあるんですけど、その当時はその概念がなくて。ウォールウォークが流行りでみんなやってたから、壁に当たってノーズがどんどん切れて短くなっていくんですよ。星野くんはスラッシャーを地で行きたい人だったから、なんならノーズをガンガン自分で壊してるくらいの感じでやってて、ノーズがガッサガサでほぼ無いんですよ。で、だんだんテールも無くなってきて、今でいう短いクルーザー系みたいになってた。
オーリーとかボンレスって言って飛び乗るとか降りるとか、そのくらいしか無かった時代だったんですよね。
衝撃だった話なんですけど、ある日星野くんが「よし、赤いスプレーを買いに行こう」って言い出して。原宿ですよ? スプレーを買って何すんのかな? って見てたら、「この赤いスプレーで血をイメージして、、、」って、グリップテープにプシューってやって、色々噴いて、、、最後口で「フー!」って乾かして(笑)。そういうわけのわかんない時代なんです(笑)。
真ん中辺りはステッカー貼ったりしてて、デッキテープはちびちび貼ってるから、スプレーかけた瞬間走り出したら全然グリップしなくなっちゃって、星野くんが「ヤベー全然プッシュできない」って(笑)。 あれだけ粋がってスプレーした割にはふてくされて終わったっていう(笑)。
I:一時期、みんなデッキテープ貼るとき真ん中を超開けてなかったですか? オオタキくん(オーさん/T-19代表)がデッキテープの間に全部ステッカー貼ってて、すげーかっこいいなって思いましたね。それでガンガンスケートするんですよ。
Y:でも今みたいに縁石に乗るスライドとかそういうのがないんで、、なんならスラッピーしかない時代。
それはなんか、、どれだけ無くすかっていう美学なんですよね。スケートってなんかそういうのがあるんですよね。
それから、17、8歳の頃僕はほぼ1人でスケートしてたんです。ストーミーとかでそこにいる人と滑ったりして、スケート的な海外旅行は1〜3人で動いてて。91〜3年に出ていたスケートの大会はほぼ1人で行ってたんです、勝手に。
それを色々な人にサポートしてもらってたんですけど。初めての大会は89年のサバンナスラマー3でした。ジョージア州アトランタのサバンナで開かれる結構有名な大会です。
I:ビデオが1〜3くらい出てて、1とかはみんな見すぎて見れなくなるくらいの、ものすごいやつですよね。
Y:ビデオデッキのカウンターの数字で見たい場所を覚えてました。
I:出たの、多分江川くんが日本人初ですよね?
Y:どうなんですかね? ロッテとコンバースがスポンサーで、僕とサトシとクリリン(大阪の)3人が出たのかな。それにアキさんていう師匠がいて、そのアキさんが引率してくれたんです。
I:めちゃくちゃでかい倉庫?ですよね。
Y: 体育館かな? なんでもできる体育館。
とにかくでかすぎて、セクションもでかすぎて、コケるとしみるくらい痛いんですよ。地面のコンクリが、バチンッと。
レベルの違いをそこで感じましたね。そんなの当時の日本にはないから滑ったこともなくて、ちょっと衝撃でしたね。普通に壁に付いているクオーターとか、2回の観客席のところとかを使うんですよみんな。で、ウォールウォーク。
とにかくでかいんですよ。一応ストリートの大会なんですけど、オールジャンルやってなきゃダメなんだってことがそこでわかった。今でこそストリートとかジャンル分けされてますけど、結局サバンナ・スラマーはバーチカルライダー、ストリートライダー、プールライダーも関係ない大会だったから、作り自体も見たこともない規模感のでかさだったんです。当時は使える大きいハコに車を入れたりして、車に合わせてランプ作ったり。
I:江川くんは海外の大会って何回くらい出たんですか?
Y:3回かな。4回目トライしたんですけど、プロ契約ができてなかったので出れなかったんです。
2回目の90年代の大会は、T19のオオタキさん(オーさん)が全部引率してくれました。アキさんの弟子みたいな立ち位置がオーさんで、そのオーさんの感じを受け継いでるのが僕らの世代のT19の形ですね。
AL:今でも記憶に残るような印象的なスポットはありますか?
I:三軒茶屋の今はコメダコーヒーがある建物の地下にロサンゼルスクラブっていう、今でいうビリヤード場?、、
Y:ロサンゼルスクラブっていうビリヤード場とダーツの専門店に、アキさんが食い込んでいって24時間営業のスケートパークを作ったんです。
I:超細長いやつ、、
I:今って郊外とかにゲーセンビルがあるじゃないですか。ああいう感じでダーツとビリヤードとスケート版。
Y:でも地下なんですよ。そしてちょいおしゃれ気味、ゲーセンよりは。その頃僕らは原宿にいたんですけど、三茶にそれができちゃったもんだから、常に原宿〜三茶をプッシュしてるっていう。
あと新宿ジャブジャブ(新宿中央公園)〜原宿間をプッシュしたり。それは、次のスポットまでプッシュして行くっていう醍醐味があるんですけど、、、
I:みんな移動はプッシュでしたよね。
Y:はい、地獄のプッシュでしたね。
I:僕、「はっちゃきくんが第三京浜をプッシュしてた」とか、そういう話をよく聞いてましたね(笑)。
Y:理由は単純で金が無いからという(笑)。 みんな金がないんですよ。だからプッシュせざるを得ない。親に頼らないでどれだけ楽しむかってなったら、プッシュしかないんですよ。
僕その当時世田谷の西側に住んでいたんで、三茶から帰ってましたよ、プッシュして。
話を戻すと、ロサンゼルスクラブは結局オープンしてたのすごい短いんですよね、1年間くらい。でもその1年の濃さがすごくて。
I:みんな来てましたよね。
Y:みんな行くとこないからそこに行くことになるんですよね。
僕、覚えてるのが、ジェフ・ケンダル、オブロスコフ、ナタス、ホソイが東京に来てて。僕も一緒に滑りたいから鼻息フンフンでロサンゼルスクラブに来るのを待ってて、、
一緒に滑ったけど、テールかけて、やったーって思ったら、実は緊張してたらしく、脚がブルブル震えて*エレベータードロップで思い切りこけて、、、笑 僕東京のみんなに殺されそうだった 笑 恥ずかしかった(笑)。
I:あそこのミニランプはすごい形でしたよね。
Y:変なUの字で、*コーピーもこんな小さくて。
I:そして天井が低いんですよね、地下なんで。だから頭ぶつけて速攻で天井に穴開いてて。
Y:実はスティーブ・キャバレロが、日本の狭い環境で作ったランプを見て、家に帰って自分のバックヤードに小さいランプを作って、それがミニランプになっていった、ていう話を聞いたことがあるんだよね。
I:マジスカ? じゃ、ミニランプの起源は、、
Y:あの時代アメリカには無かったんですよ、そんなちっちゃいの。
I:確かに。
Y:ミニランプが出来たのは多分90年代に入ってからですよね? 最初はバーチカルしかないんですよ。その後に少しだけミニランプブームとミニランプスパンでやる大会が増えたんですよね、ハワイとかで。
その話を辿ると、キャバレロがロサンゼルスクラブに来てアメリカにアイディアを持って帰って、自分で作ってって話になる。キャバレロは向こうではスターだから、「自分の家に変なもの作ったらしいよ」って噂になってミニランプっていう概念ができたと。
そしてキャバレロは最近また家にミニランプ作ってるんですよ。「あー! やばい、またミニランプ作ってるー」って僕だけ興奮してるんです。子供達のために、こんなに嬉しいことはないって。それをわかってくれる人は少ないんだけど、オーさんやスケシンさんたちとは共有してたんですよ。
IMAZATO氏所有のカセットテープ。左上時計回りに…
ポートランドのパンクロックバンド”POISON IDEA”のもの。
90s CLASSSICS。2. 『LIGHTER SHADE OF BROWN/HIP HOP LOCOS』
HUGGY BOYの語りから始まる”HOMIES”は、
先輩の曽根くんの車の中で1万回ぐらい聴いた。3. 『STRANGE NOTES/REASON FOR LIVING』
SANTA CRUZのVHS、STRANGE NOTESの付録。
当時VIOLENT GRINDの床に大量に転がっていた。
4. 『MAXIMUM ROCK N ROLL/THEY DON’T GET PAID,THEY DON’T GET LAID,BUT BOY DO THEY WORK HARD! 』
SAN FRANCISCOのパンクロックZINEが出してたカセットシリーズ。
子供の頃は人を介してか、PUSZONEかMMRぐらいしか情報源がなかった。
5. 『幻の湖-LAKE OF ILLUSION-/SAME TITLE』
HMV立川店の名物コーナー「幻の湖」のコンピレーション。
どんなフォーマットでも結局は編集能力だと思うけど、
新しい音楽をカセットテープで知ることができるのは、
ちょっとぐにゃって楽しい。
6. 『RIGID/DEMO』
大阪のRIGIDによる1st DEMO。
楽曲、音色、アートワーク、クレジット、全てに美学が詰まりまくった名作。
PHIL SPECTOR亡くなっちゃいましたね。
7. 『VIOLENT GRINDの黒さんのMIX TAPE①』
黒さんの作ってくれたカセットテープには、
60~70年代の重いロックがたくさん入っていて凄く新鮮だった。
数年経ってから、それが所謂”PSYCHEDELIC”だと知った。
8. 『VIOLENT GRINDの黒さんのMIX TAPE②』
お店が終わるとZOOに飲みに行って、そのままよくタクシーで釣りに連れて行ってくれた。
その道中にラジカセでかかっていたカセットテープ。
スケーター、DJに限らず何かを表現する人は表舞台に立つ時、その人自身を表現している。表現方法はそれぞれのスタイルがあるだろうが、人の心を打つ瞬間というのは上手い、下手で判別できる技術より、発せられたエネルギーが波となりオーディエンスに伝わる時、すなわち表現者自身をどれだけ違う形で現せられるかということにかかっているともいえる。
YOPPI氏とIMAZATO氏はそこに特化した人物だと感じる。
ある一線を超えた表現の可能性は、全てをボーダーレス化する。
今回のOne hour mixtapeシリーズは、ジャンルという物差しで聴くとそれぞれ全くの別物であり、各々DJとしてのスタイルもまるで違う。
しかし、生み出されたエネルギーはまさにその人そのものであり、そこにあらゆる境界線は消えて無くなっている。
ただ、1時間、リールが回っている。
1981年、米国サンフランシスコのHigh Speed Productions Incによって発行されたスケートボーディング雑誌。(*2) ニシさん
西岡昌典 aka Devil dog。1970年代よりアメリカ西海岸文化を日本に伝え、ジェイ・アダムスやクリスチャン・ホソイといったレジェンド達との深い交流を持ち、現在の日本のストリートカルチャーに多大な影響を与えた。2014年7月に永眠。
(*3) オーシャンサイドとかのスケートビデオ
UNREEL PRODUCTIONSから発売された、
1986年にOCEANSIDEで開催されたSTREET/FREESTYLEの大会のビデオ。
(*4)露店
ブルックリンのフルトン・モール。
(*5) 真柄さん
真柄尚武。90年代よりVINTAGE KING、real mad HECTIC、MASTERPIECEなどのバイヤー、プロデュースを務める。現MASTERPIECE SOUND。
(*6)エレベータードロップ
スケボーのトリックの1つ。クォーターやミニランプのコーピングに、テールやノーズを掛けた状態からR面に降りるトリックのこと。
(*7)コーピー
コーピング。ランページやバーティカルなどのR面とプラットホームの接点となるパイプのこと。又はカーブボックスのエッジに取り付けられた金属部分のこと。
YOPPI
東京都世田谷区出身。東京のストリートシーンを牽引し続ける中心人物。
1994 年から〈ヘクティク〉のディレクターとして活躍。
現在も T-19 所属のスケーターとして活躍する等、 趣味と仕事を共存している希有な存在。2012年からは「オンブレ・ニーニョ」を発足。2015年よりXLARGEの新しいライン、PLUS L by XLARGEのディレクターも務める。
「Hombre Niño」HP
IMAZATO
東京都世田谷区出身。ハードコアバンド、STRUGGLE FOR PRIDEのフロントマン。DJ HOLIDAYとしても活動。
スケートや音楽など、東京を拠点にさまざまなストリートカルチャーのオリジネイター。
2018年には『WE STRUGGLE FOR ALL OUR PRIDE.』をリリース。
2020年にはDJ HOLIDAYとして、TROJANよりオフィシャルMix CD 「FLIPPING MANY BIRDS」をリリースした。
Words: Yudai Tanaka
Photos: Haruki Kodama