空き家や閉店して手つかずになってしまった店舗、そして廃校。大都市で日々の大半を過ごしていると気づくことがない空白が、地方では増え続けている。その課題は常に議題となっているが、明快な糸口はなく、棚上げされ続けているように思う。しかし、答えは案外シンプルなのかもしれない(ただ、容易いというわけではない)、と今回の取材で感じた。茨城県の水戸駅から車で1時間ほど、人里離れた小学校の音楽室だった場所を誰でもウェルカムなオーディオルームとした蝸牛(かぎゅう)文庫は、老若男女が集い、音楽や読書を楽しむコミュニティスペースになっている。空いてしまったスペースに充実したソフト、オリジナルのアーカイブを入れ込む。そうすることで、空白は息を吹き返す。
廃校となった小学校の音楽室がオーディオルームになるまで
小学生の数は1980年代の前半をピークに減り続けている。その影響をダイレクトに受けるのが学校であり、特に地方では小中学校の統廃合が進んでいる。蝸牛文庫があるのは2003年に廃校になった小学校、舟生分校の校舎2階。オーディオが置かれているのは、その一番奥、元々音楽室があった場所だ。
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この音楽室で、立派なシステムを使って、数千枚のレコードが聴き放題となれば、音楽好きならまるで桃源郷と言っていいだろう。
「やあ、こんにちは」。
気さくに出迎えてくれた宮本正見さんは、もともと県内の工業高校で教鞭を執っていた先生だ。だが、元先生が廃校を利用して音楽が楽しめる場所を作ったという分かりやすい成り立ちを想像すると、それはちょっと違うかもしれない。
宮本さんが蝸牛文庫を作ったのは主に私的な動機と事情による。それはこの蝸牛文庫にある数千枚のレコードのほとんどが宮本さんが集められたコレクションであることからも分かる。
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宮本さんがレコードに興味をもったのは大学生の頃の友人の影響だったという。
「今から60年以上前ですから、レコードは高級品でした。そんな時に寮の向かいの部屋に住んでいた友人がプレーヤーとレコードを持っていたんです」。友人に聴かされたモーツァルト作曲による「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は宮本さんをクラシックの世界に引きずり込むのに十分な魅力があった。
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宮本さんは自分でプレーヤーを組み立て、レコードをコツコツと買い集めた。「もちろんたくさんは買えないので、仲間内で誰かがレコードを買うとみんなで聴きに行ったりして」。
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やがて大学を卒業して県立工業高校の教師になった宮本さんは、下宿先の近所の薬屋の一角にレコードがあるのを発見した。注文で取り寄せられると知ると、「ベートーベン、モーツァルト、シューベルトからフィッシャー=ディースカウのオペラなども聴きました」。ドイツ語のオペラは日本語訳の冊子を見ながら聴きこんだという。
また修学旅行の引率で大阪万博に行ったときは、「自由時間にソビエト館に併設された物産店にレコードがあるのを見つけて、何枚も買ってしまいました。生徒たちに『何買ったの』と訊かれて困りましたね(笑)。でも新世界レーベル*の元になったメロディア**の本国版が売ってたんですよ。当時はなかなか手に入らなかったのでうれしかったですね」。
*新世界レーベル:元々はソ連の書籍等を輸入販売していた新世界レコード社が、1950年代に立ち上げたのが新世界レーベル。1970年代中頃にレコード製作から撤退。メロディアの版権は日本ビクターに移譲した。
**メロディア:旧ソ連が国営していたレコードレーベル。新世界レコードはメロディアとライセンス契約し、1960年代に日本で紹介をしていた。
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レコードを収集し続けた宮本さんだが、それなりの量になると自室に置いておくことができなくなり、コレクションの大半を勤めていた高校の実習室に置いていたという。そうして最後の赴任先である水戸の工業高校を定年退職される頃にはコレクションは大変な量になっていたそうだ。しかし退任後は実習室に置いておくわけにもいかず、レコードをすべて段ボールに詰め、急いで借りたレンタル倉庫に押し込んだ。
そんな折、知り合いから廃校を様ざまな用途に活用している、という話を聞いた宮本さんは、自分のコレクションをいろいろな人に聴いてもらえるスペースを作ろうと思いついた。
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
さっそく利用できる廃校を探し始めた宮本さんが、いくつもの廃校を訪れた末にたどり着いたのが、この舟生分校。宮本さん曰く、「自分がイメージしていたとおりの場所でした」。
こうして舟生分校は廃校になってから5年後の2008年、その一部ではあるが蝸牛文庫として再出発することになった。
現在進行形で増殖している蝸牛文庫のアーカイブ
「何枚あるか数えたことはない」というレコードは大半が宮本さんの集めたものだが、その一角に「古橋惣吉コレクション」と区分された一角がある。全国的にはあまり知られていないが、茨城県では著名な写真家だそうだ。
その古橋氏がお亡くなりになった際に、氏のレコードコレクションを遺族が常陸大宮市に寄贈。ながらく役所に保管されていたそうだが、蝸牛文庫のアイデアが持ち込まれた時に、「古橋惣吉コレクション」も活かしてほしいと市役所から委託され、蝸牛文庫に収められることになったそうだ。
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他にもレコードやCDに限らず、家具や民具が知人から寄贈されたり、一般の方から持ち込まれ、蝸牛文庫の一部は博物館のような様相を呈している。まるでモノを介して人が集うハブのような役目を果たしているようだ。
さて、クラシックから始まった宮本さんのレコードコレクションだが、ジャズやロック、ポップスのレコードもかなりのもの。いまから2、30年前、CD全盛のあおりでレコードが二束三文で売られていた時代も、宮本さんはレコードから離れることはなかった。おかげでジャズのコレクションも増えたようだ。マイルスがフュージョンというジャンルを定着させた『Bitches Brew』も、レコードブームの今では考えられないような値段で入手できたという。
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
いまでもリサイクルショップなどで掘り出し物のレコードを見つけると、つい買ってしまうというから、蝸牛文庫は現在進行形で増殖している。
音楽室というシチュエーションと相まるオーディオ
宮本さんはオーディオマニアというよりも音楽マニアだ。ここは似て非なるもので、最新のオーディオ機器や周辺機器への執着は薄い。とはいえ良い音で聴く、という目的はオーディオマニアのそれと重なっているので、機材も納得のいく顔ぶれになっている。
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JBL 4344(写真中央)はもともと宮本さんがお持ちのもので、高台の音楽室という絶好の舞台を用意され、それは気持ちよさげに鳴る。アンプはAccuphaseのセパレートで、メインアンプは4344用に1台、センモニ(YAMAHA NS-1000M)と特注の箱に収められたJBLのD130(写真右手)用に1台、計2台が稼働している。
なかでも蝸牛文庫に行ったらぜひ聴いていただきたいのがD130だ。
「あるとき、初めてお会いする方がトラックでやってきて、箱だけ持ち込まれたんです」という分厚い1枚板で作られたエンクロージャーは後面開放型。バッフルにはD130より大きな穴が開けられていたので、裏から当て板をしてふさいだ。上に乗るYLのホーンは片方修理中とのことで、現在はD130一発で鳴らされている。
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D130は4344に比べればレンジも狭く、解像度も低い。しかし大きなフルレンジが後面開放で伸び伸びと鳴らされるのが、小学校の音楽室というシチュエーションと相まって、なんと気持ちの良いことか。駆動するアンプもP-11というAccuphaseの中では微妙な立ち位置のモデルなのがまた絶妙にマッチしている。
大人から子供まで楽しめる図書室
ここまで音楽室を中心にご紹介してきたが、蝸牛文庫を語るうえで欠かせないのが奥様のさき子さんだ。
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じつはおふたりで廃校を探していて、この舟生分校を訪れたときに、一番この場所を気に入ったのはさき子さんだった。「高台で風も景色もとても気持ち良かったの」と当時を振り返る。
しかし、様々な手続きが終わり、いよいよ荷物を搬入という時にさき子さんが倒れてしまう。入院を余儀なくされたさき子さんに、宮本さんも蝸牛文庫のオープンを諦めかけたという。そんなときに宮本さんを励ましたのが病床のさき子さんだった。その声に押され、また仲間にも助けられ宮本さんは蝸牛文庫をオープンさせた。その後退院されたさき子さんは、宮本さんを陰に日向に支えながら、この蝸牛文庫を切り盛りしている。
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ちなみに音楽室の手前には図書室があるのだが、元からあった児童書に加え、本好きのさき子さんがせっせと蔵書を増やしている。おかげで小学校の図書室とは思えないほど充実した内容で、大人から子供まで楽しめる図書室になった。
現在、宮本さんご夫妻は水戸市にお住まいで、蝸牛文庫までクルマで1時間強かかってしまう。そうしたこともあって、蝸牛文庫がオープンしているのは、土曜から月曜の週3日だけ。またおふたりともご高齢なことから、悪天候などで臨時で閉めざるを得ないこともある。訪れる際には、事前に確認した方が安心かもしれない。
ところで、この蝸牛文庫。傍から見ているだけの者が思うのも恐縮なのだが、目下の心配事がふたつある。
ひとつは校舎の傷みが気になること。もはや廃校なので公的に維持されているわけではなく、かといって宮本さんたちが私財を投じることもできないため仕方がないとはいえ、あと何年維持できるか、現在とても気持ちの良い場所なだけに心配だ。
もうひとつが、宮本さんがつぶやかれた「誰か後を継いでくれる人がいれば」という言葉。確かにこの大きな施設をおふたりで切り盛りするのは大変なことだと思う。だが、蝸牛文庫はご夫妻がいらっしゃってこそだとも思わざるを得ない。傍観者のわがままを承知で言わせていただければ、おふたりにはいつまでもお元気で、たまに伺ったときには「やあ、いらっしゃい」と言っていただきたい。そう思わずにはいられない。
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蝸牛文庫
旧・舟生分校
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〒319-3107 茨城県常陸大宮市舟生819-1
090-7906-2189
OPEN:10:00〜17:00(開館日=毎週土、日、月曜日 ※臨時休館もあるため前日までに電話で要確認)
Photos:Shintaro Yoshimatsu
Words:Makoto Sawamura(ステレオ時代)
Edit:Yusuke Osumi(WATARIGARASU)