哲学者、ジル・ドゥルーズは絶え間ない変化が差異を生み、その差異こそが「存在」だと主張した。そこにあえてつけ加えるなら、差異は面白さや驚きも創出する。かつてはあったオーディオを“組み立てる”ということ。長年の試行錯誤によってつくられたシステムと、それが配置された空間は驚異的と言えるほどのオリジナリティを備えている。今回訪問させていただいたのは、横須賀の住宅街に位置している古屋明さんという方のご自宅/オーディオルーム。棚にびっしりと収まっているレコード、“畳”のようなスピーカー、JBL製Metregonなどなど……。取材はまず、その特異な空間に圧倒されるところからはじまった。
音楽が好きな人間が、自分の好きな音でオーディオで鳴らすための部屋
1960年代まで、レコードプレーヤーはユーザーがパーツを買ってきて組み立てるものだった。キャビネットを買うか自分でつくり、そこにモーターとトーンアームを組み込み、カートリッジを取り付ければ完成する。やがてレコードプレーヤーはメジャーなメーカーがつくる完成品が主流になるが、現在でも特にマニア向けの高級品では、ターンテーブルとトーンアームは好きなものを組み合わせることが珍しくない。つまり世の中にはトーンアームを主業とするメーカーが存在するのだ。
現在でこそそうしたトーンアームメーカーは海外の企業が多いが、1980年代くらいまでは日本にもトーンアームを主力製品とするメーカーがいくつも存在していた。中でもFR(Fidelity-Research)は、元々カートリッジをつくるために設立されたメーカーだったがFR-54やFR-64sというヒットモデルのおかげでトーンアームのメーカーとしてマニアに認知されていることが多い。
正確に回転させ余分なノイズを発生させないことが命題のターンテーブルに対し、レコードの溝だけをトレースするためにつくられたトーンアームは、オーディオ機器というよりも工芸品といった趣がある。とくにFR-64sは美しかった。一般的なトーンアームが軽く丈夫なアルミでつくられているのに対して、FR-64sはステンレスでつくられた輝くパイプが特徴だった。そのFR-64sを開発した技術者が、現在は個人でカートリッジやトーンアームの修理・レストアを手がけられている古屋明氏だ。
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工房を兼ねるご自宅は12年前に建て替えられたそうだが、その時に「音楽を鳴らすための部屋」として作られたのがこの部屋だ。
「この部屋は最初からリスニングルームとして計画されたんですか?」とたずねるとあくまで「音楽を鳴らすための部屋」なのだと訂正される。訊けばかしこまったリスニングルームやスタジオというものではなく、リラックスして音楽に浸れる場所にしたかったと言う。続けて「生活の中に溶け込んだ、リビングの延長なんです」と。
そう言われてみれば、この部屋には頑丈なドアがない。
リスニングルームの場合は普通、音を漏らさないための頑丈なドアが取り付けてあり、なおかつ閉鎖的だ。しかし古屋さんの部屋は開放的な印象がある。
その代わり、斜めになった天然木の天井、壁に設えられた棚にはレコードがぎっしりと詰められ、平行になった平滑な面は存在しない。つまり自然な響きがほどよく存在するようデザインされている。
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「音楽が好きな人間が、自分の好きな音でオーディオで鳴らすための部屋、という総合的なものなんです。だから装置だけが良くてもダメ、レコードも数あれば良いというものじゃない。部屋もそう。その3つのバランスが取れてないとダメなんです」。
そんな古屋さんだからオーディオシステムは一般的な評価や人気ではなく、自分の耳だけを基準に組み合わされている。中でも入口の正面に据えられた畳のようなスピーカーは、イギリスのQUAD製ESL(Electro Static Loudspeaker)。大きなフィルムに高い電圧をかけて静電気を発生させ振動させる静電式という方式が採用されたもの。ものすごく珍しいというわけではないが、メインのシステムとして使われているのはあまり見かけない。
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そして、古屋さんの聴く音楽は本当に幅広い。特にクラシックが多いようだが、ジャズもよく聴いている。また床のビートルズ・ボックスを見てもわかる通りロックも。ただやはりメディアはアナログ・レコードがメインで、CDの数はレコードに比べると少ない。
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曲や気分によって合うシステムを変える
一般的にQUADのESLがあまりメインに使われないのは、しっかりと鳴らすのが難しいからだ。特に音圧はあまり出ないのが特徴で、大きな音を出すために2本、3本(一般的にスピーカーは何「本」と数えるが、QUADのESLは「枚」と数えたくなる……)と重ねることがある。しかし、ただでさえ広い音源、さらに背面は開放とあまりにも一般的なスピーカーと違いすぎる。
ところが古屋さんのQUADはピタリと決まっている。「ここに座ってみてください」と言われるがままに椅子に腰かけた瞬間、音源によってはステージが目の前に現れたように、あるいはホールの客席に座ったようにも、音源に刻まれたミキサーの意図を正確に表現してくれるのだ。
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よくESLは「繊細」などと表現されるが、おそらくそれは、上手くセッティングできなかった人が恐る恐る鳴らす音なのだろう(ESLはやみくもにボリュームを上げると壊れる……と言われている)。古屋さんのESLは芯のあるガツンとくる音を鳴らしてくれる。この音はクセになる。
こんな音がするQUADは初めてです、と古屋さんに言うと「これはセッティングだけでなくシステムの組み合わせも大切なんです」と言う。
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ハイエンドマニアのリスニングルームにお邪魔してよく見かけるシステムは、アンプはMcIntoshやMark Levinson、スピーカーはJBLのモニターや(TANNOY。だがMcIntoshなどでQUADを良く鳴らすのはやはり難しいのだそうだ。「やっぱりアンプもQUADでないと」とのことで、ターンテーブルのEMT930が繋がれたQUADのアンプは44と405。小ぶりでアンティークなデザインが受けて、最近はクリエイターやカメラマンに人気なのだそう。
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一方、向かって右に鎮座している、つまり先のQUADと同じ部屋で共存しているのはJBL Metregon。
仕事柄日本中のオーディオマニア、ジャズバー、ジャズ喫茶などを訪れているのだが、日本人は本当にJBLのParagonが好きだなあ、と感じることが多い。ParagonはJBLの設計者リチャード・レンジャー(Richard Ranger)氏がつくったシリーズの最上級モデルだが、この超高級スピーカーの弟分が2モデルある。末弟がMinigon、真ん中がMetregon。新品時はMetregon、Minigonの方が安かったのだが、むしろParagonよりレアだ。
実はMetregonを初めて聴いたのが、古屋さんを最初に取材させていただいた時だった。Paragonのゆったりした音と全く違い、若々しいキレのある音に驚いたものだった。
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古屋さんは「曲や気分によって合うシステムが違うから、ひとつというわけにいかないんですよ」と話す。部屋の隅にはモノラル用のTANNOY Corner Yorkが、またMetregonの両脇にはCD再生用にSonus faberがセッティングされている。組み合わされるプレーヤーやアンプもバランスを考えてセレクトされているがGarrard、THORENS、EMTとアナログマニア垂涎の機器ばかり。もちろん価値や名声で選んだものではない。レコードをいかに良い音で鳴らすかだけを考えたシステムだ。
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正直に言ってしまえば普通のオーディオマニアはどうしても他人の評価・意見に、少なからず捉われるだろう。あるいは逆に自分の考えに凝り固まる人も少なくない。だが古屋さんのシステムは、そうした凡人の価値観とは無縁だ。自分が気持ち良く聴ける、ということだけが基準。
しかし、それが心地良い。
まるで俗世から離れた仙人の庵。だがそれは悟りを開いた人だけの場所ではなく、私のような俗人にもとてつもなく居心地の良い場所だった。
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
Photos:Shintaro Yoshimatsu
Words:Makoto Sawamura(ステレオ時代)
Edit:Yusuke Osumi(WATARIGARASU)