1974年にデトロイトで生まれ、2006年に32歳という若さでこの世を去ったジェイムス・デウィット・ヤンシー(James Dewitt Yancey)ことJ・ディラ(J Dilla、以下Dilla)。昨年、そんな彼の生誕50周年を祝うパーティが上海、東京、大阪で開催された。そのフライヤーに採用されたDillaのポートレートを撮影したのは、日本人フォトグラファーのSUZUだった。

Dillaの歴史やSUZUとの関係性、50周年イベントの様子、来日していたイラ・J(Illa J)とフランク・ン・ダンク(Frank-N-Dank)のインタビューを通して、Dillaの素顔と、後世へ何を残してくれたのかを、いま一度振り返りたい。

独自のサウンドと、そこに凝縮される革新性。

2006年にリリースしたアルバム『Donuts』はいまなお多くの人に影響を与え続け、ファーサイド(The Pharcyde)の「Drop」も、ディアンジェロ(D’Angelo)の「Feel Like Makin’ Love」も、いまなおヒップホップ史に燦然と輝き続ける。このように、Dillaが手がけてきた名曲は枚挙にいとまがない。

そんな彼は、幼少期から音楽に囲まれていた。母親のモーリン・ヤンシー(Maureen Yancey)はオペラ歌手として活躍し、父親のビバリー・デウィット・ヤンシー(Beverly Dewitt Yancey)はベーシストとして活動。多様な音楽的影響を受けながら、Dillaの感性は磨かれていったのだった。

Dillaが残した最大の功績のひとつは、彼が確立した独特のビート制作手法だろう。彼が台頭する以前のヒップホップであれば、完璧なタイミングで音を配置していくことが一般的だったが、Dillaは意図的にズレを作り出し、人間味のある生きたグルーヴを生み出した。この手法は、後の世代のプロデューサーたちに多大な影響を与えたと言っていい。


例えば、『Donuts』に収録されている「Workinonit」では、わずかな遅れやズレを意図的に組み込むことで、機械的な正確さではなく人間的な自然な揺らぎを再現しているし、後述するスラム・ヴィレッジ(Slum Village)在籍時に手がけた「Fall in Love」では、スネアドラムのタイミングを微妙にずらすことで、浮遊感のある独特なグルーヴを生み出している。それによって、DIllaの音楽はスウィングしていく。

サンプリング手法も、ならではだった。『Donuts』収録の「Don’t Cry」では、ジ・エスコーツ(The Escorts) の「I Can’t Stand」 から、細かな音の断片を丁寧に切り取り再構築していたりする。

32年という短い生涯の中で、現代音楽の方向性までをも変えた革新者。いまだに色褪せることのないDillaのサウンドは、この先もずっと、形を変えながら受け継がれていくのだと思う。

ヒップホップの枠を超えた、共演の歴史。

Dillaの本格的なキャリアは、出身地であるデトロイトのローカルシーンからはじまった。高校に入学したのち、かねてから友人だったT3、バーティン(Baatin)とともにスラム・ヴィレッジを結成。当時はジェイ・ディー(Jay Dee)という名義で活動していた。

彼のキャリアの転機となったのは、ア・トライブ・コールド・クエスト(A Tribe Called Quest)のQティップ(Q-Tip)との出会いだった。Qティップは、地元のラジオDJの紹介でDillaの音源を聴き、その才能に即座に魅了された。これを機に、Dillaはア・トライブ・コールド・クエストの1996年のアルバム『Beats, Rhymes and Life』に参加。ザ・ウマー(The Ummah)というプロダクションユニットの一員として、アルバム制作に大きく貢献した。

そこからDillaの才能は、多くの人に知れ渡るようになる。ヒップホップシーンにとどまらず、ジャズやソウル、R&Bなど、幅広いジャンルのアーティストからも高い評価を受け、楽曲提供やプロデュースしたアーティストは数知れない。

なかでも、ザ・ルーツ(The Roots)の「Dynamite!」、コモン(Common)の『Like Water for Chocolate』などは、 他ジャンルとヒップホップの境界を曖昧にして、新しいサウンドスケープを創ったと言っていい。

エリカ・バドゥ(Erykah Badu)との共作では「Didn’t Cha Know」で示されたような、ソウルミュージックの新しい可能性を追求した。このトラックでは、タリカ・ブルー(Tarika Blue)の「Dreamflower」 をサンプリングしながらも、まったく新しい音楽世界を構築することに成功している。

Dilla好きは懐かしんでいただき、そうでない人はぜひ他の楽曲も検索してもらい、そのサウンドをいま一度、耳で堪能してみて欲しい。

SUZUが撮影したDillaの素顔。

先日開催された50周年パーティのフライヤーに使われた写真は、日本人フォトグラファーであるSUZUが、Dillaが逝去する直前に撮った写真だ。彼は当時をこう振り返る。

2005年にSUZUによって撮影されたDillaの写真。

「2005年6月、マッドリブ(Madlib)とDillaによるユニット、ジェイリブ(Jaylib)のライブがあって、ありがたいことにそのライブに関わらせていただいて。当日会場に行くとDillaがバックステージに静かに座っていてね。当時は闘病中だったから、ステージに少しの間だけ上がり、すぐホテルへ帰っていきました。ホント一瞬の出来事でしたけど、とても長い時間に感じられたし、いまでも鮮明に覚えています」

ここで、SUZUが何者で、いかにしてDillaと距離を縮めたのかを少しだけ記したい。

SUZUは北海道で生まれ育ち、1999年に空間デザインを学ぶために渡米。その頃から写真を撮ることがライフワークとなっていた。アメリカの住まいはサンフランシスコ。当時はいまほどITタウンでもなかったし、家賃も高くなく、濃密なカルチャーの空気が充満しているような街だった。そこでSUZUは仲間たちとパーティを主催するようになる。

「仲間たちと”fresco”というパーティを主催するだけでなく、オリジナルのグラフィックでTシャツを作ったりもしていました」

Tシャツの最初の取引先は、ニューヨークのストリートファッションを牽引したセレクトショップUNION(知っている人からすれば、それがいかにすごいことだったのかがわかるはずだ)。一方、小さな箱からスタートしたイベントは次第に盛り上がり、のちにジャイルス・ピーターソン(Gilles Peterson)、『Mushroom Jazz』のマーク・ファリナ(Mark Farina)、マッドリブなど、錚々たる顔ぶれもゲストでやってくるようになった。その評判は広まっていき、2006年、上述したジェイリブのイベントを手伝うことになったのだ。

2006年にサンフランシスコで開催された『Donuts』リリースパーティのフライヤー。

「そこから関係を築き、『Donuts』のリリースパーティをサンフランシスコでやることになって。オーガナイズはぼくらが担っていて、当日はDillaも体調次第で会場に来る予定だったんです。ところがイベントの7日前にDillaが旅立ってしまい…」

予定していた『Donuts』のリリースパーティは、期せずして世界初となるDillaのトリビュートパーティになったのだった。

パーティには母親のモーリン・ヤンシーもかけつけた。
パーティには母親のモーリン・ヤンシーもかけつけた。
左から南カリフォリニアが生んだレジェンドDJのジェイ・ロック(J Rocc)とマッドリブ。
左から南カリフォリニアが生んだレジェンドDJのジェイ・ロック(J Rocc)とマッドリブ。
世界で最初のDillaトリビュートに駆けつけた人々。
世界で最初のDillaトリビュートに駆けつけた人々。

この頃、SUZUは日本でもDillaの素晴らしさを知ってもらおうと画策。2008年にはスラム・ヴィレッジを招待し、トリビュートパーティを開催した。これが、日本で最初のDillaのオフィシャルパーティである。


現在は国内外問わず、さまざまなプロジェクトに関わりながら、合間を縫ってファーサイドのツアーに同行したり、ステージ裏の模様を写真に収め続けている。決して表に出てくるわけではないけれど、こうした人たちが、まだ見ぬカルチャーの架け橋を担っている。

もちろん、今回の周年パーティにも帯同し写真を撮り続けていたSUZU。本稿の写真も、すべて彼が記録したものだ。

Dillaを愛するアーティストが集結した周年イベント。

Dillaが仮に生きていれば、2024年で50歳を迎えていた。もしそんな世界線があるのであれば、アメリカおよび日本の音楽界も、いまとはまた違う景色だったかもしれない。

そして過日、上海、大阪、東京の3都市で開催されたイベント『THANK YOU, JAMES: Celebrating 50 Years of J-DILLA』。東京の会場は、新旧問わず、Dillaに心酔した人たちでいっぱいになっていた。




国内からは、Dillaの革新的なサウンドに影響を受けてきた5lackやISSUGIら日本のシーンを牽引するアーティストらが参戦。そしてヘッドライナーは、Dillaの盟友で、その軌跡を共にしてきたヒップホップ・デュオ、フランク・ン・ダンクが登場。さらに、その遺伝子を継承する実弟のイラ・Jが出演し、デトロイトのオーセンティックな音楽が会場を包み込んでいた。

イベントが終わった朝4時頃。イラ・J(以下 Illa)とフランク・ン・ダンク(以下 Frank、Dank)が楽屋に招き入れてくれた。

最後に、彼らの貴重なインタビューで記事を終わりにしたいと思う。思い出話からも、いかにDillaが音楽的にも、人間的にも優れた人物だったかが透けて見えた。

 

今日は突然のインタビューに応じてくれてありがとうございます。

写真左からフランク、イラ、ダンク。

Frank:きっとDillaも喜んでくれていると思うよ。Dillaが日本に初めてきたのは1997年頃だったと思うんだけど、その頃の彼はクラブに行くと決まってシャンパンを飲んでいたんだ。でもね、日本のクラブでシャンパンをしこたま飲んだから、アメリカに戻ってからシャンパンは飲まなくなったんだ(笑)。

そうだったんですね。Dillaは、あまりお酒は飲まなかった?


Frank:昔は大好きだった。クラブに行っては一度に9杯注文したりしてたから。でもこれは若い頃の話で、2000年くらいまでの話。そのあと、Dillaはお酒をやめてね。

今回日本でプレイして、Dillaへのリスペクトや愛を感じることはありましたか?


Illa:もちろんだよ。来日は6回目なんだけど、東京はいつ来ても本当に素晴らしい。アメリカ以外で住むとしたら候補に上がる土地はいくつかしかないけど、東京はそのひとつだね。馴染みやすい場所だし、美味しい食べ物もある。人も素敵だよ。

Frank:そう、日本は本当にクールな場所だと思う。90年代半ばに初めて来たときから2024年になった今でもね。もちろん音楽への愛も感じるし、スニーカーの品揃えも豊富だし、ゲーム好きとしてはビデオゲームも充実してるから(笑)。

演奏した日本のアーティストからもDillaのエッセンスは感じましたか?

Frank:彼らは俺らと同じエネルギーを持っていて、音楽的にも同じような感覚を持っているし、裏に見える努力や情熱に自然と感謝と敬意を抱くよ。それに、今回は彼らをステージに上げたかったんだ。なぜなら、ぼくらのファンに日本のヒップホップの存在を示すことは重要だと思ったし、それが日本を超えて世界に広がっていくきっかけになるとも思ってね。


この節目の年に、改めてDillaについて思うことはありますか?

Dank:Dillaは俺の人生を間違いなく変えてくれた。というのも、Dillaは俺に仕事を辞めさせたんだ。たしか1999年頃のことだと思う。それまでは工場で働いていたんだけど、深夜シフトの前だったかな。俺がMicke Moveという友人のスタジオでヴァースを録音してたら「誰かがお前に会いに来てるぞ」って言うんだ。俺は「待たせておいてくれ」って返事をした。録音を終えてブースを出たら、そこにDillaが立っていたんだ。

この話をすると感情的になるんだけど…(涙をためながら言葉に詰まる)そのあとDillaとクルマに乗ったら「お前はこれから家に帰って、母親に仕事を辞めるって言ってきてくれ。俺はお前に仕事を辞めてほしい。俺は準備ができてるしフランクもそうだ。これから、俺とお前とフランクで、本気で音楽をやるんだ」ってね。それで俺は工場の仕事に行かずにそのまま家に帰った。家に帰って、ドアをノックして母親に「ママ、Dillaが準備ができたって」と言ったんだ。すると母親は「じゃあ、仕事を辞めなさい」って。


お母さんは何をするのか、詳しく聞かなかったんですか?

Dank:そう、ただ「Dillaと一緒に」と言っただけで納得してくれた。最初のレコード契約は67万5千ドルで、5万ドルの契約ボーナス付きだった。最初に買った高級車もDillaが手配してくれたし、最初のパスポートも彼のおかげで手に入れた。初めてアムステルダムに行ったのも、日本に初めて来たのも、全部Dillaのおかげだったんだ。Dillaは俺のマインドを変えた。これが真実。何の飾りもなしで、そのままの話さ。

Illa:自分もDillaにはいろいろ教わったし、影響を受けてきたよ。だから若いアーティストたちに出会うたびに、彼らがこの道を進むために必要な情報を伝えるのは義務だと思ってる。それは、兄弟としてDillaが俺にしてくれたことを受け継ぐことでもあるんだ。

Dank:俺たちが最初のEPを出したのは1998年なんだ。報酬としてお金をもらってチェーン(アクセサリー)を買おうとしてたんだけど、その頃はDillaがよくスタジオまでクルマで送ってくれていたから、負担を減らそうと結局は自分のクルマを買ったんだよ。後日、自分のクルマでスタジオに行ってみると、欲しかったGUCCIのチェーンとGUCCIの腕時計が机に置いてあって。Dillaが「これは、お前のだよ」って。それはいまでも宝物だね。


Words & Edit:Keisuke Kimura
Photos:SUZU
Translate: Toshi Arai
Special Thanks:Paradice Production

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