好きな音楽を聴くとテンションが上がったり、逆に落ち着いたりするのは体感レベルでは分かる。いずれにせよ音楽は時に心地よさをもたらしてくれるが、それは何故なのか。”好きだから”が聴く本人の答えだと思うが、それよりもっと根本的な、思考の源である脳が作用することでその「心地よさ」は引き起こされている可能性がある。アメリカのベストセラー作家であるダニエル・J・レヴィティンによる著書『新版 音楽好きな脳 ~人はなぜ音楽に夢中になるのか~』は「心地よさ」の背景を科学的に解明してくれる、ふたつとない書物だ。
音楽好きな科学者の個人史を交えたエッセイ。
「こういう音楽は好きだけど、こういう音楽は苦手。」といった個々人の趣味趣向は言わずもがなあるが、有史以来、音楽を持たない人間の文化は無いと言われているし、音楽そのものが嫌いだと言う人はおそらく皆無に等しいだろう。多くの音楽を知っている、知らないを問わず、誰にでも必ずお気に入りの音楽はあるはずだ。ただ、それが何故 ”お気に入り”であるかを明確に回答できる人は多くない。思い出や原体験の話だけではない。どうして心地よいと感じるのか、という心理の話である。
ニューヨーク・タイムズのベストセラーに選出され、2021年にヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスより日本語版が発売された『新版 音楽好きな脳 ~人はなぜ音楽に夢中になるのか~』(以下、本書)は、脳科学・神経科学の観点から、その心理が引き起こる理由を解き明かしてくれる。著者はダニエル・J・レヴィティン。現在の主な肩書きは神経科学者で、アップルやマイクロソフト、ソニー、フェンダーといった企業のコンサルタントも務めてきたエキスパートだが、元々はロックバンドを組んでいたミュージシャンで、バンド解散の後は音楽プロデューサー、スタジオマンも務めていた人物だ。
ダニエル・J・レヴィティンが神経科学の道に進むようになった経緯は、音楽スタジオでの仕事でプロフェッショナルの業を目の当たりにしたことが発端だった。半ば感覚的(=天才的)な作業の元で進められるレコーディングとエンジニアリング。そこにいる皆のセンスが混ざり合い、出来上がっていく楽曲。しかしいくら丹精を込めたとしても、その曲にこの世のすべての人が心を動かされるか、と言ったらそういうわけではない。ふと湧いて出た人間の「知覚」に対する疑問が学びの意欲を生み、30代でスタンフォード大学に入学し、認知心理学と科学を専攻する。優秀な成績で卒業した後、オレゴン大学の大学院で修士、博士号を取得。そこから現在のキャリアをスタートさせた。
音楽がもたらす心理を科学でアナライズするなんてナンセンスだ、と言う人も少なからずいるだろう。さらには難しい音楽理論や専門用語を振りかざされたり、大して興味のない音楽を押し付けられては、音楽家でない限り怖気づいてしまうと思う。しかし本書では「モーツァルトを毎日20分聴くと、頭がよくなる」とか、リラックスできるといった押し付けは書かれていない。「音楽を理解できるのは経験のたまもの」と記されており、客観的な机上の空論によってこれが正しいと決め付けるのではなく、あくまで個人の脳がお気に入りの音楽によってどう作用するのか、という話が音楽好きな科学者の個人史や憶測を交えたエッセイ的に繰り広げられている。
話の出発点は音楽がどうやって出来上がり、成り立っているのかの解説。そこを皮切りに様々なエピソードが織り込まれ進んでいくのだが、今回は(本記事の)筆者が特に関心を抱いた、脳の進化の中で最も古いと言われている小脳と音楽の関係に少し焦点を当てたい。
“脳は音楽が大好き”であることを伝えるための本。
音楽をはじめとする芸術は右脳、言語や数字などのロジカルなものは左脳で処理されるとよく耳にする。しかし本書は前書きからその話を「いささか古い、単純な考え方」と否定して見せ、同時に「音楽は脳全体に分散」していると言う。細かくてそれこそ難しい気になってしまうが、脳のいくつかの部位が音楽に対してどう反応するのかを抜粋し、以下に箇条書きする。
・大脳皮質(前頭葉)=「動く、足で拍子をとる、踊る、楽器を演奏する」
・感覚皮質(頭頂葉)=「楽器演奏と踊りからの触覚のフィードバック」
・聴覚皮質(側頭葉)=「音を聞く最初の段階、音の知覚と分析」
・海馬(側頭葉深部)=「音楽、音楽にまつわる経験、文脈の記憶」
・小脳(大脳の下部についている)=「音で拍子をとる、踊る、楽器を演奏するなどの動き。音楽の対する感情にも関与している」
要するに音楽を聴くとウキウキしたり、記憶が呼び起こされたり、脳の色々な部分がお祭り騒ぎのごとく総動員されるようなことが起きるというわけだ。中でも大喜び、活性化するのがどうやら小脳。本書によると、小脳が関与するのは「計時と運動のみ」と言われ続けてきたらしいが、喜びも怒りも含めたあらゆる感情の中枢を担っている可能性が高く、その感情が動機となって運動や行動に繋がってくると言う。
楽しい音楽(この”楽しい”は人により、一概にポップなものとは限らない)は無論、ワクワクする。気分がいい日、どこかへ行く道すがら楽しい音楽を聴きながら歩けば、小躍りしたくなる気持ちに駆られるのは珍しい現象ではないはず。つまり脳にとって音楽は「報酬」あるいは「覚醒」を引き起こす装置で、それを聴くことによってドーパミン(=快楽物質)が生成される。そのドーパミンの受容体が小脳にあることも分かっているそうだ。
しかも先述の通り小脳は拍子やリズムを司る。好きな音楽を聴きながらのフィジカルトレーニングが爽快で、加えて目標を達成すると急にポジティブにすらなれる理由が、何となく分かってくる。反対の極論だと思うが、前向きな運動や活動を後押ししてくれない音楽は、あなたの脳が躍らない音楽なのかもしれない。
では、「お気に入り」はどうやって生まれるのか。それについては、さすがに大きなネタバレになってしまうので本書に譲りたい。少なくとも思い出や原体験、シナプス(ニューロンを接続するもの。体験による学習で変化する)の成長過程がやはり重要であることだけは記しておく。
ダニエル・J・レヴィティン曰く、本書は「音楽と脳がどのように共進化したかの物語」なのだ。音楽はエンターテインメントで、好事家にとってはコレクションの対象になるひとつのハイレベルな趣味だが、それ以上に生きる上で不可欠であることを、読み進めていくと痛感させられる。この本は“音楽が好きな人の脳”についてではなく、“脳は音楽が大好き”であることを伝えるためのものなのだと思う。
Words: Yusuke Osumi(WATARIGARASU)
Photos: Shintaro Yoshimatsu