アナログ製品に限らず、ひとつの製品には多くの人が携わっている。 たとえば野菜の直売所にいくと、そこに並ぶ野菜にはプロフィールが書いてあり、産地や生産者の顔を見ることができる。 作り手の顔が見えると、その野菜がここに届くまでのストーリーが想像できて、なんだか「温かさ」を感じる。

イヤホンやマイク、ヘッドセットなどさまざまな音響機器を製造販売しているオーディオテクニカ。 その歴史はアナログカートリッジの製造・販売からスタートし、創業の1962年から現在まで多くの製品を展開してきた。 この連載ではその作り手にフォーカスを当て、バックストーリーを発信していく。

今回はカートリッジやケーブルなどを製作するホームリスニング開発課の川尻 庸資に話を聞いた。 これまでにさまざまな製品を生み出しており、直近ではフラッグシップモデルであるMCカートリッジ『AT-ART1000X』開発を担当。 オーディオテクニカに入社するまでに感じていたこと、そして現在の仕事のことまで、アナログを紡ぐエンジニアのストーリーをご紹介しよう。



ヘッドホンではなく、カートリッジを開発することに

川尻さんはもともとはヘッドホンの開発に興味を持って入社されたんですよね。

就職活動をしている時期に、大学の先輩が某S社に入社してヘッドホンの設計をしているという話を聞き、「僕もそれをやろう」と思い立ったのがきっかけですね。 そこからオーディオ機器メーカーで、ヘッドホンの開発をしている企業の入社試験をいくつか受けて、最終的にオーディオテクニカへ入社しました。

学生時代からバンドをしていたとのことで、音楽が身近にある生活だったようですね。

そうですね、大学生のときに地元でバンドを組んでいてよくライブハウスに入り浸っていました。 音楽はよく聴いていて、当時購入して使っていたのが『ATH-ES700』というポータブルヘッドホンでした。 それぞれの楽器の音が形を成して聴こえ、「この曲はこういうアレンジだったのか」と改めて曲の理解が深まる感じがありました。 オーディオテクニカとの出会いはこの製品だったと思うのですが、そこからずっといい印象を持っていましたね。

川尻さんとオーディオテクニカ 出会いのヘッドホン『ATH-ES700』
*現在は生産完了

当初はヘッドホン開発に興味を持っていたものの、配属はホームリスニング開発課になってカートリッジを担当することになったんですね。

はい、入社の動機がヘッドホンの開発だったので、それに携われる部署にいけるといいなと思っていました。 ただ、新人研修でレコードに触れたのがきっかけでレコードにも興味がわいていたので次点でホームリスニング開発課を希望に入れていて、結果的に今の部署へ配属になりました。 新卒で入社して今年で8年目になりますが、現在も同部署に在籍していて配属以来ずっとカートリッジの製品開発を行っています。

心持ちとしては何か変化があったのでしょうか?

入社当時と比べると、より一層レコードへの興味は増しています。 ”レコードは記録メディアの中で音楽的に最も優れている” と感じており、レコード再生にまつわる仕事はとても興味深いです。


フラッグシップモデルは開発から発売まで2年半くらいかかった

7月に発売されたばかりの『ATH-ART1000X』は川尻さんの担当製品ですよね。

はい、この製品は2016年7月に発売された『AT-ART1000』の次世代モデルで、設計思想とデザインを踏襲しています。 2022年1月ごろから構想をはじめて、開発から発売するまでおおよそ2年半くらいかかりましたね。 前モデル同様、ART1000X も日本国内で開発・設計・製造を行っているMADE IN JAPANです。

ものづくり業界では製品を発売する前に、いくつかの試作段階を設けてさまざまな評価をするんです。 企業や製品によって段階は異なりますが、まずは「原理試作」を作って製品の機能や形状を確認します。 そこで問題がクリアになってから、次は量産を意識した「数増し試作」を作ります。

2年半のうち、はじめの1年半くらいを原理試作に費やし、そのあとの製品としての開発過程に1年くらいかかりました。 コイル巻き治具の作成にかかった時間はおおよそ5か月ほどです。


2年半…生みの苦しみが想像できますね。 ここまでくる過程で「ここは一番時間をかけた」というポイントを教えてください。

コイルの形状、ですね。 ART1000Xと前モデルとで変更したポイントの中で大部分を占めているのが、コイル形状です。 出力をあげるために磁気回路の変更からスタートしましたが、それでは望ましい結果が得られなかったので、コイルの変更にシフトした背景があります。

コイルはカートリッジの重要なパーツで、サイズとしてはものすごく小さいものです。 コイルの変更と聞くと、単なる ”パーツの差し替え” のように聞こえる方もいるかもしれませんが、この繊細な細い1本の線をどういう形にするかで音が大きく変わってくるのです。 完成形にもっていくまでに、何度も試作を繰り返し、長い時間をかけてこれだという形状にたどり着きました。


ART1000Xを開発している期間の一番楽しかった瞬間、一方で苦しかった瞬間はどういった場面でしたか?

楽しい!といった時間は正直なところ思い出せませんね(笑)

苦しかったときは多かったですが、特に量産手前の数増し試作の段階が最も大変でした。 プロトタイプが1個できたとしても、量産できなければユーザーのもとには届きません。 一度作った試作品の生産量を増やすだけ、と単純に見えますが、試作から量産に移行する際には多くの課題が発生することがほとんどです。 図面をもとにいざ部品の現物を作ってみると、多少なりとも誤差やばらつきが生じます。

なので当初の設計意図から外れることなく、実際に生産できるように治具や部品同士を調整するのが大変でした。 次々と問題が発生し、そのたびにチームで検討・解決しながら試作を続けて今の完成形にたどり着きましたね。 試作の苦労だけでなく、生産部の技術力と努力もあったからこそ発売までたどり着けたと実感しています。

*治具:製品の組み立てをしやすいようにサポートする置台や追加工を加えた工具類のこと。

作業がなかなか思うように進まない場面に出くわしたとき、川尻さんはどのような対処法を取っていますか?

行き詰まったときは、よほどスケジュールに追われてない限りは一度家に帰る方がいいですね。 ひたすら向き合っていくこともありますが、細やかな作業をしている分、集中力もかなり消耗します。 そういうときは一度リセットするように心がけています。


2年半の歳月をかけて満を持して発売されたART1000Xですが、最も伝えたいポイントを1つ挙げるとしたら、どの部分でしょうか?

やはり音質ですね、なによりもこだわったポイントです。 『ART1000』の売りである高解像を維持・向上させながらも帯域バランスを最適化し、ART1000で物足りなかった低域もしっかり出るようになりました。 音場の立体感も圧倒的に向上しました。 より幅広い音源で楽しんでいただけると思います。
すでにART1000をお持ちの方も、ぜひ『ART1000X』をご体感いただきたいです。

最後に、ART1000Xでのリスニングを楽しむのにおすすめのレコードを1枚、教えてください。

Corneliusの『Mello Waves』ですね。 2017年(LPは2018年発売)に発表されたアルバムで、個人的に大好きな1枚です。 ART1000Xは現代のポップミュージックにもマッチします。


エンジニア 川尻さんのとある1日

8:15 会社到着
8:30 午前業務スタート
メールチェック、関係部署との打ち合わせの設定、新製品設計、3Dモデリング、製図など
※3Dモデリングとは…3D CADと呼ばれるソフトを用いて、コンピューター上で立体物を形作る作業
12:15 ランチ
ほとんど食堂でとることが多い
13:00 午後業務スタート
午前同様の業務
15:00~17:00 試作品の性能評価
17:15 業務終了
帰宅後 家に帰ってギターを弾いたり、一人で飲み屋に行ったり

Engineer:Yosuke Kawajiri
Photos:Hinano Kimoto
Edit:May Mochizuki
Direction:E.SUKIKO

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