「ウェルビーイング」や「ウェルネス」という、心身の健康増進を指す言葉、スローガンをよく見かけるようになって久しい。 背景は様々あるだろうが、そのひとつに音楽や映画の視聴も、コミュニケーションも、そして仕事も、デジタルデバイスによって手の平で完結させられるようになってしまったことも要因だと考えられる。 いわゆるオンとオフの境目がなくなり、人びとは新たな境目とその先を探すように、時間や場所、あるいは自我の解放を求めるようになった。
種々あるだろうストレスの元凶って何だろう? そもそもの根本を探ってみるのが本企画の意図だ。 語り部はグラミー賞ノミネートアーティストという、おそらく多くのミュージシャンが目指す到達点に達しながらも、そこでの安住を選択しなかったアーティストのstarRo(溝口真矢)氏。
自己、他者へのケアという観点、意識を重んじながら、国内外での長年の音楽活動を行った結果、辿り着いたのは、都会から遠く離れた自然溢れる辺境、秋田県仙北市にある田沢湖近くでの暮らしで、氏は現在、そこで地域おこし協力隊の一員として町、人に深く関わっている。
あまねくストレスの種と考えられそうないくつかの普遍的なテーマをお題に、starRo氏の現在の暮らしやバックグラウンド、追憶を交えた、担当編集者との往復書簡連載を展開していく。 癒しと平穏をもたらしてくれるのは徹頭徹尾、(音などが作り出す場を含む)環境と実のあるリアルな言葉であるという仮説の元で。
Theme.01:目的/目標
成長と競争偏重のカルマの中でどう生きるか。
Question:
目的、あるいは目標。 生き、働き、何かを選択するモチベーションともなるそれらは、時として弊害になることもあると思います。 クリエイターや研究者、文筆家、アスリートなどであれば、ひと握りの人しか得られない名誉となる何かの賞を獲得すること。 経済的な自由や安定を求め、大企業への就職、そこでのキャリアアップや昇給を目指すこと、SNSでフォロワーを大量に増やすことを目的、目標としている人も少なからずいるでしょう。
「上を目指す」とはよく聞きますが、ヒエラルキーの突端はとてつもなく狭くて寒くて、「ひと握り」と言う通り、見渡すと誰もいなくなっているかもしません。 ただ、あまねく生物は縦構造の上部に向かっていく欲求をもっているという説もあります(基本的にはアメーバ状に広がっていく粘菌ですら、非常に微細ではあるもののそうだと言われています)。 ニョキニョキと出る杭が現れ、続くのは追いつき、追い越されのシーソーゲーム。 成長と競争偏重のカルマ。
starRoさんは、グラミー賞ノミネートというミュージシャンとしてのゴールのひとつに辿り着いたのと同時にニヒリズム(様々な物事に虚無を見出し、真には何も存在しないという立場、または態度)、その後に鬱に陥ってしまったと別のインタビューなどでおっしゃっていました。
「ゴール」と呼ばれている場所に到達したことがないので、もちろん、その境遇そのものに対する完璧な共感はできないのですが、結局、「突端」で見渡してみても答えは何もなかった、ただ持ち上げられただけだった、またはある種の期待と落胆があったのでは、と想像します。
何かを統治する立場になったり(なろうとしたり)、他人の畑の中でのし上がるのではなく、受動態と能動態の中間に当たり、自らで何事もドライブさせる「中動態」という言葉にも以前触れていたことがあったかと思うのですが、目的、目標と思っていた現実との差異の折り合いをどうつけていくのが良いのでしょうか。
Answer from starRo:
「幸福感そのものがそもそも非常に主観的な感覚だし、幸福感という結果と前提条件の因果関係は、誰でも当てはまるようなシンプルなものではありません」
どんな生物も縦型構造の上を目指していくという説を僕は知らなかったのですが、それもそうなんだろうなとも思います。
ただし、人間以外の生物のそのようなメカニズムは、縦型構造の上にいくという目的があって、そこに向かっていくというより、ひたすらサバイバルのための営みを繰り返す先に縦型構造の上という結果があるというものな気がします。
一方で、わたしたち人間にとってのゴールとは、未来に対して特定の「結果」を予め設定する行為だと思います。 そしてわたしたちが「結果」に本当に求めているものは、つきつめると、例えば「3年後に会社の営業利益を3億円に」という言語化された事象というより、その事象によってもたらされる持続的な幸福感だったりします。
でもわたしたちは実際には、何が本当に「幸福感」をもたらすのか、はっきりわかっていません。 だから、自分なりに「幸福感」をもたらす前提条件を自分で決めつけて、その前提条件の方をゴールに定めるわけです。
では、その前提条件と「幸福感」という結果の因果関係は、何を根拠にしているのでしょうか。 その大抵は、教育・メディア・社会活動によって与えられる情報に頼っています。 自らの感覚を頼りにするのではなく、自らはまだ体験していない誰かに与えられた因果関係を、あたかもそれを自分もやれば「幸福感」が得られるかのように思い込んでしまう。
でも、幸福感そのものがそもそも非常に主観的な感覚だし、幸福感という結果と前提条件の因果関係は、誰でも当てはまるようなシンプルなものではありません。
それぞれが通ってきた人生は唯一無二であり、その道で拾ってくるトラウマとか価値観、世界観はみんな違い、全く同じ事象に対してもそれをどう認識するかは千差万別です。 さらに、わたしたちを取り巻く環境は人間の認知能力を遥かに超える複雑さを持っていて刻々と変化しており、今日の成功を支える環境は明日には微妙に変わっています。 数年後、数十年後なら尚更です。
ゴールは日本語にすると目標とか目的になりますが、目線を合わすべき「標的」は常に動いているのに、我々はその標的があたかも空間的にも時間的にも影響を受けず、常に固定されている前提にしてしまうのです。
「対象は常に変化しているという事実を受け止めること、そして、それに最速で対応できる「自分の感覚」をはっきりともっていることが必須」
今回グラミー賞の例を出していただきましたが、グラミー賞は確かに僕が小学生の時から憧れていたものでした。 でも、グラミー賞を取ったり、ノミネートされたら、具体的に何が待っているかを知る由はありません。 受賞して授賞式で喜んでいる人の一瞬の幸福感は見えたり、その人がその後栄誉をベースに活躍して「幸せそう」な様子をテレビやSNSで垣間見ることはできますが、その人の実際の生活や心の中は分かりようがないし、その人がその後の人生でどう感じていっているのかについては、誰も触れようともしません。
設定するゴールは、今の自分より遠ければ遠いほど、ゴール達成のイメージはより抽象的になり、自分にとって都合のいいイメージだけが切り取られます。
多くの人が、今の自分よりだいぶ「上」を目指すのは、より身近にあるイメージしやすいゴールでうまくいかなかったり、思ったのと違ったりした経験があるから、そういったリアリティをリンクしなくていいようなより抽象度の高いところに、可能性を見出したくなるからではないかと思います。
しかし、わたしたちが身近な環境からでさえ可能性を見出せなかったり、満足できなかったりするのは、普段から、目の前にあるリアリティと自分の感覚を擦り合わせる時間よりも、スマホやテレビの向こう側の幻想に自分を投影している時間が多いからではないでしょうか。 あるいは、会社や学校など、関わる多くの人の最大公約数で形成された規範に自分を投影するような環境に時間や意識を取られることが多いからではないでしょうか。
本当は刻々と変化していっている世界と、幸福感という主観的な感覚をすり合わせ続ける自分たちは、試合中のボクサーのようなもので、セコンドのアドバイスが耳に入ってきていても、最終的には自分の感覚で対応していなければ、反応が間に合いません。
そのためには、対象は常に変化しているという事実を受け止めること、そして、それに最速で対応できる「自分の感覚」をはっきりともっていることが必須だと思います。 それが中動態ということなのではないでしょうか。
そしてそれがあれば、どうなるかもわからない遠い将来のことや、全てを同一化することはできない他人のイメージに自分を投影するようなことは、意味のないことだとわかるでしょう。
「自分だけの時間を持って「自分の感覚」と他の誰かの感覚の境界をはっきりと感じられるようにすることが大事だと感じています」
もちろん、それが意味がないことだと頭でわかってても、気を許すとついついそっちの道に逸れてしまいがちです。 だから意識をしなくても中動態でいるためには、普段から諸行無常を認識して生活したり、小さくてもいいから今の自分の主観的な幸福感を感じられることをやったり、自分だけの時間を持って「自分の感覚」と他の誰かの感覚の境界をはっきりと感じられるようにすることが大事だと感じています。
僕は今、秋田県仙北市にある田沢湖高原に住んでいるのですが、ここにある圧倒的な自然の中にいると、緑の色彩の微妙な変化、聞こえてくる鳥や虫の移り変わり、湖の色や匂いの変化など、諸行無常を日常で認識させられます。
また、パブリックな娯楽も都会のようにはないので、各々が自分なりに楽しみを見つけていくことになります。
そして、都会と違って、特に冬なんかは自然現象とダイレクトに向き合うことになり、己をもって自然に対応することが日常に組み込まれます。
リアリティをそういう解像度で生きていると、それだけで情報量が多くて、今を生きることがより自然体になってきます。 その積み重ねの先に結果的に、より無理なく持続的に幸福感がある未来があるのだと思います。 冒頭で述べた、人間以外の生物の営みのメカニズムにある、結果的に縦型のより強い環境(上)に向かっているという現象もそういうことなんじゃないでしょうか。
starRo
溝口真矢
神奈川県横浜市出身のアーティストでありDJ。 大学卒業後、テック企業に勤め、31歳の時にLAに移住。 SoundCloud黎明期に音楽制作活動を本格化させ、アップしたトラックが注目される。 2013年、Ta-Ku(ター・クー)やLAKIM(ラキム)、Tom Misch(トム・ミッシュ)などがリリースしたこともあるレーベル、Soulectionに加入し、2016年にはThe Silver Lake Chorus(ザ・シルバー・レイク・コーラス)の楽曲「Heavy Star Movin’」のリミックスを手掛け、グラミー賞 最優秀リミックス・レコーディング部門にノミネートされる。 コロナ禍を機に日本に戻り、しばらくは東京やその近郊で暮らしていたが、仙北市にある田沢湖の湖畔でDJをしたのをきっかけに現地の人と繋がり、2023年、地域おこし協力隊(リトリート担当)に任命された。 温泉あがりにアンビエントを流すサウンドバスやフィールドレコーディング体験、音浴とヨガを掛け合わせた企画を立てるなど、仙北市の人びとと深く関わりつつある。
Text(Answer):starRo(Shinya Mizoguchi)
Edit:Yusuke Osumi(WATARIGARASU)
Top Image:AI