子どもの頃に観たフランス人冒険家ジャック=イヴ・クストーによる海中ドキュメンタリー映画『沈黙の世界』(1956年)の印象が強くて、海のなかは無音世界と勝手に思い込んでいたが、現実は正反対だった。あらゆる地球の音が響きあう、とても賑やかな場所なのだという。深海の音を聴いてみよう。

海中の音の記録

音を伝える物質(=媒質)としての液体は非常に高性能で、一秒間に1500メートルも伝わる。空気中の音が秒速340メートルで進むのに比べると、4倍以上の速さだ。海水そのものは無口だが、海水を伝って四方八方からさまざまな音が交錯する。魚類や海洋生物が発する鳴き声、海底地震や台風など自然現象が作る音、そして船のプロペラやソナー、海底開発の工事音など人間が作る雑音。

地表面の70パーセントを占める海洋は、ありとあらゆる地球の音が重なり響きあうシンフォニー・ホールなのである。

すぐれた水中マイクを使って収録した海中の音(Ocean Noise)を分析して未知の海洋世界を理解しようとする海洋音響学(Underwater Acoustics)は、機材のおかげで格段の進歩を遂げている。この海の音の分析すると、地球の地学的動向から海中生物の生態や環境破壊の実態まで、学問分野の壁を超えて実に多彩な新情報が得られるのだ。

海中音のなかでも、“世界でもっとも深い場所”といわれる太平洋のグアム島沖にあるマリアナ海溝での音の採集にも成功*している。地球上で最も深い海底「チャレンジャー海淵」の音だ。水深は約10,900メートル。11キロ。太陽光がまったく届かず、水温は限りなく摂氏0度に近く、水圧は一平方インチ(約2.5センチメートル)あたり8トン。地球上で最も過酷な環境で聞こえてきた音が、これだ。

*アメリカ海洋大気庁(NOAA)の太平洋海洋環境研究所(PMEL)とオレゴン州立大学ハットフィールド海洋科学センターの共同調査(2015)による。


海の、いや、地球の最深部の音のアーカイブを集めてきたチームの主導者であり、海洋音響環境に関する研究を進める海洋学者、Robert Dziak教授の話を聞きつつ、貴重な海中音にも耳をそばだててみよう。

チャレンジャー海淵での録音の様子
Image courtesy of U.S. Coast Guard Petty Officer 3rd Class Dylan Hall

長らく、海洋音響学について研究を重ねてきていますが、海洋学者としては、マリアナ海溝やチャレンジャー海淵というのは、研究へのロマンを感じる領域だったのでしょうか。

このプロジェクトの目的は、世界の海洋のなかでも一番深い場所で、初めて環境音の録音をおこなうこと。チャレンジャー海淵のような特殊な場所での試みは前例がなかったため、この集音は非常に重要でした。海中の人為的な騒音に関しては数十年前から知られており、主な原因は、世界中で増加するコンテナ船だと考えられていますから、その人間活動の影響から遠く離れたチャレンジャー海淵の“現場”は、地球上でもっとも静かな場所の一つだと信じていました。

チャレンジャー海淵の位置
Image courtesy of NOAA

集音のための水中マイクは、チタン製の特殊なハウジングにおさめられ、海底に23日間放置されました。前人未到の調査です。多くのハプニングや障壁に見舞われたのではないかと推測しますが、最大の緊張のモーメントは?

一番印象に残っているのは、水中マイクを海底に下ろすまでの時間が長かったことです。(いかり付きの)水中マイクがゆっくりと海の底まで沈むまで、6時間もかかるのですよ。非常に長い時間でした。水中マイクとは、船の上からピーン(アクティブ・ソナー音)という高音を発信し、交信できます。マイクの返信で海面からどのくらい沈んだかが、つぶさにわかるのです。なにか一つでもトラブルが生じると計画が台無しになるため、スタッフ全員がマイクから返信に戦々恐々。緊張で息もつけない6時間でした。

釣り糸を6時間かけて垂らすようなものなのでしょうか。尋常の忍耐力では太刀打ちできそうもないですが、目指すは「世界最深」。教授たちの熱意を突き動かしたのでしょうね。

この録音で一番苦労した点は、このような過酷な条件のなかで我々の録音機器を無事作動させることでした。チャレンジャー海淵の過酷な水圧(水深11キロメートル)に耐えるべく機材のパッケージとシステムを開発する必要がありました。セラミック製の水中マイク部品が割れないように、海底への降下速度を秒速50センチメートル以下に保ち、かつ一旦海底に到達したら正常作動させる、ということです。

ちなみに、この“最強”のマイクメーカーは?

我々NOAAの研究室でエンジニアが独自に製作しました。

お手製の水中マイク
Image courtesy of NOAA

お手製とは、さすが。調査をおこなう前、地球海洋の最深部にどんな音を期待していましたか?

実は、チャレンジャー海淵は静寂に満ちていると予想していたのです。世界の海の中で最も深い場所なので、西太平洋周辺の音源とは音響的に隔離されているのではないかと考えていました。ところが蓋を開けてみると、船や音響測深器*などの人為的な雑音や、近くの地震による音がたくさん聞こえてくることがわかりました。

*音波を出し、その跳ね返りを利用して水深を測る測定器。

深海は思ったよりずっと騒々しかった。集音してみて、新しい発見は?

一番面白かったのは、水中マイクの真上を通過した台風の音。台風の音が水柱*を支配していたことには驚きました。台風によって発生した風や波の音は、海底においても非常に大きな音だったのです。

*海の表面から底部全体を指す概念的な考え方。

その台風の音を聞いてみたい。

その音は数日間続くため、録音アーカイブは持っていません。

(代わりにというわけではないが、これは、マグニチュード5の地震音)

マグニチュード5の地震の音

深海でも日によって、あるいは時間帯によって、“騒がしい日や“静かな時間”など、音の世界に定期的な変化があるのですか?

昼夜の差による恒常的な変化は見られませんでした。船舶の通過は、ある一定時間、比較的大きな騒音源となりますが、船舶は昼夜関係なく通過しますからね。

船舶のプロペラ音

教授にとっての、印象深かった音を教えていただきたい。

ヒゲクジラやイルカの鳴き声。これにはかなり驚きました。動物たちの声は水中マイクの真上の海面近く、つまり距離にして11キロも離れていたのに、鮮明に録れていたからです。

それは興味深い。これらの自然の音に、船舶の人為的なノイズがくわわり、新しいサウンドができたり?

それは、ほとんどありませんでした。人為的な騒音と動物の声はピッチ(音程)が異なるため、違う信号として区別できるからです。

ハクジラ、ヒゲクジラの音
ハクジラ
Image courtesy of NOAA

この記念碑的な調査から7年。チャレンジャー海淵での教授たちの研究は海洋学にどんな影響をあたえたのでしょうか。

私たちの研究が海洋学にあたえた最大の功績は、世界で初めてチャレンジャー海淵の環境音の集録に成功したこと。この最初の音響記録をベースラインにして、これから先の未来に収集する音響情報と比較すると、人間による海洋への影響の変化の具合が把握できます。

これらの音を基準に、海洋の健康がわかるということですね。

気候変動による海の変化が続き、全世界的に海洋での人間活動が増加するなか、今後は「海洋における環境騒音レベルが増え続けるのか」また「これらの海洋のサウンドスケープの変化が、世界中の海洋生物や生態系の健康状態にどのような影響をあたえるのか」などが重要な研究課題であると考えられます。

チャレンジャー海淵より深い海は地球上にはないのだから、文字通り“ベース(基地、土台)”ができた。そんなベースを再び訪ねてみたいとは、思いますか。

もし再訪することができて、過去7年間で海中の騒音が増加したか減少したかを検出できれば、とても興味深いです。また、プエルトリコ海溝、マロイディープ、ジャワ海溝、サウスサンドイッチ海溝など、海盆(海底のくぼみ)が最も深い場所にも水中マイクを設置して、基準音響レベルを採集したいですね。世界中のレベルを比較することによって、人間活動や気候変動が海洋深層部にあたえる影響が地域によって同じなのか、あるいは異なるのかを確認することができます。

Robert Dziak/ロバート・ジアク

米オレゴンを拠点にする海洋学者、教授。アメリカ海洋大気庁の海洋音響環境に関する研究を進めるAcoustics Program(アコースティック・プログラム)のマネジャー。海洋と音響に関する研究を30年以上続けており、マリアナ海溝だけではなく、南極にあるナンセン棚氷など、アクセスが難しいスポットでも研究をおこなっている。

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Eyecatch Image: Image courtesy of U.S. Coast Guard Petty Officer 2nd Class Tara Molle
Words: Hideo Nakamura edit by HEAPS

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