音楽業界に生きる人専用のセラピストコレクティブがある。
所属するのは全員「元・音楽業界人、現・心理療法士」。やって来るのはキャリアへの不信感を抱く新進気鋭アーティストから、燃え尽き症候群に悩む著名プロデューサーまで、様々。
音楽業界の仕組みを深く理解しているセラピストだからできる、心のアドバイスを探ってみる。
悩みに寄り添ってくれるのは、元・音楽業界人のセラピスト集団
予測不能で競争の激しいところ、音楽業界。ただでさえストレスが蔓延する現代社会だが、音楽業界人が直面するストレスも例に漏れず、凄まじい。音楽業界に属する個人のメンタルヘルスについては、近年、より言及されるようになっている。
パフォーマンスへの恐怖や成功を維持するプレッシャー、世間からの評価や周囲からの圧力など、挙げたらキリがない。そんな厳しい業界ゆえ、ある英国の調査によると同国平均と比べ「ミュージシャンはうつ病や不安障害になる可能性が3倍高い」という。
メンタルヘルスが不安定になりがちな業界人の心の拠り所として昨今注目を集めているのが、Music Industry Therapists & Coaches(以下、MITC)だ。2018年に創立、英国と米国、ヨーロッパの一部に拠点を置く、音楽業界人に特化したセラピストとコーチが集結した団体。
特徴は、所属する全員が、音楽業界で最低5年の勤務経験がある心理療法士であること。つまり、過去にアーティストやプロデューサー、DJやメジャーレーベルのPRとして業界にどっぷり浸かっていたエキスパートが、セラピストとしてカウンセリングを施してくれるということ。
ライブベニューでの勤務やイベントブッカーなどとして10年間音楽業界で働いた後、大学で心理療法士としてのトレーニングを受け、病院で数年間働き、MITCを設立したファウンダーのTamsin Embletonにコンタクト。
業界の仕組みを熟知した彼らだからこそのセラピーを聞いてみた。
音楽業界で働く人のための、セラピストとコーチが集結した団体MITC。創立の理由を教えてください。
創立前から音楽業界のメンタルヘルスに関する研究は多く行われており、そのなかで「ミュージシャンはうつ病や不安障害になる可能性が3倍高い」という英国の調査報告がありました。(表舞台に立つミュージシャンだけでなく裏方の)プロモーターやツアー関係者の精神障害の割合も高く、さらに自殺率も男性ミュージシャンの場合、約3倍高い。また過去の英国のいくつかの研究によると、「ミュージシャンはメンタルヘルスについて相談するところがない、どこに助けを求めればいいかわからないと思っている」とも。そこで、この状況を変えたい、音楽業界人の希望になりたい、とMITCを創立しました。
ウェブサイトに「音楽業界の労働条件は、音楽業界人のメンタルヘルスを悪化させるだけでなく、新たな課題の種をまく可能性があるのではと懸念する」と記載があるのを見ました。これはどういうことでしょう。
業種によって異なりますが、ここでは例としてアーティストをあげてみましょう。彼らは常に最高の作品を生み出し、常に最高のパフォーマンスを提供しなければなりません。それだけでも計り知れないプレッシャーですが、加えてタイトなスケジュールをこなし、周囲からの期待に応え、自身を最大限に表現しなければならない。ゆえにメンタルが削れるだけでなく、生活自体に影響を及ぼすこともありうる。
現在、MITCに勤務するセラピストは19人。みな、音楽業界内または業界周辺の仕組みを深く理解し、かつさまざまな治療トレーニングを受けてきた経験豊富なセラピストばかり。
「音楽」と「心理療法」という二つの畑で勤務経験がある人はどれくらいいるものなのでしょう。
当時、私はコンサートツアーに関する心理的影響について調査していたこともあり、音楽業界にバックグラウンドを持つセラピストに会うことは多かったですね。また近年では多くの研究が行われていることもあり、セラピストに興味を持ちトレーニングを受ける人の数は増加傾向にあります。それにマネージャーやアーティストとしての経験があれば、セラピストになることは自然なステップだと思うんです。
なぜでしょう?
マネージャーは思いやりを持ちながら(アーティストを)世話する役割を担っていますし、ミュージシャンは内省的でなければならない。どちらも心理療法に転用できるスキルです。
なるほど。Tamsinはライブベニュー勤務やイベントブッカーなどとして10年間音楽業界で働いた後、大学でトレーニングを受け、病院で数年間働き、MITCを設立。なぜ音楽業界人から心理療法士になろうと?
昔、Nick Cave and the Bad Seeds(オーストラリアのロックバンド)のメンバーによるサイドプロジェクトアルバム『Grinderman』のツアーに参加したんです。ツアー中、Nickとセラピーやお互いのメンタルヘルス、トラウマ(心的外傷)などについて深く話したことを覚えています。それから数年後。当時はレコーディングスタジオで勤務していたのですが、仕事への情熱が薄れはじめ、何か新しいことを始めたいと考えていました。そこで、当時のNickとの会話を思い出したんです。彼だけでなく、周りにはメンタルヘルスに頭を抱えるアーティストも多かった。私には音楽業界の知識もありましたし、これは挑戦する価値があるのではと思い、キャリアチェンジしたわけです。
音楽業界で働いていた10年間で、自身が感じたメンタルヘルスの問題はありましたか?
MITCでは、セラピストは自身のメンタルヘルスのことを公に極力話さないようにしています。セラピーセッションにおいて、クライアントの妨げになってしまう可能性があるため。
あ、取材でもダメですか。気になってつい聞いてしまいました。
はは、いいですよ。音楽業界とは関係ないですが、私は幼少期のトラウマや自身のアイデンティティについてのセラピーを受けてきた過去があります。
MITCが雇うセラピストの条件があれば教えてください。
長いリストがありますよ。いくつかあげると…
①音楽業界で最低5年の勤務経験があること
ある研究で「カウンセラーが業界を理解している場合、クライアントであるミュージシャンにより良い結果をもたらす傾向がある」ことがわかっています。
②心理療法士として登録されていこと
これは必須です。
③トラウマをよく理解していること
これも重要。音楽業界では、重度のトラウマを抱えるクライアントの割合が高いので。
MITC以外にも、音楽業界で働く人にセラピーを提供する団体ってあるんですか?
独自のセラピーを提供する個人から大きな組織まで、たくさんありますよ。たとえば米国にはグラミー賞を主催するThe Recording Academyが設立した「MusiCares」や、音楽業界のプロフェッショナルをウェルネスリソースに繋ぐ「Backline」。英国には、心理療法や音楽サポートに助成金を提供する「Help Musicians」や、パフォーミングアーツコミュニティのメンタルヘルスを支援する「BAPAM」などがあります。
他の団体にはない、MITCのユニークなところってなんでしょう。
いまあげた団体は、セラピストの音楽業界での勤務経験は必須にしていないと思います。それがMITCとの大きな違い。ゆえに、クライアントが業界についての話を「ゼロから話す必要がない」のです。我々は音楽業界を深く理解しているからこそ、セラピーセッションを効率的に行えることが強みといえます。業界特有の対人関係についてや音楽業界での仕事に伴うライフスタイルや抱える苦悩などを、ゼロから説明しなくていい。業界への理解が、我々とクライアントの「共通語」ですから。
また我々のセラピストは、4年間に渡る高度なトレーニングを受けています。さらに様々なサポート提供や毎月のピア・スーパービジョン(仲間や同僚同士で助言しあうこと)も行っていますよ。
セラピストとしてのスキルアップも怠らない。さて、セラピーを受けに来るクライアントについても知りたいです。どんな業種の人が訪ねてくるんですか?
表舞台に立つ新進気鋭シンガーソングライターから、裏方のツアーマネージャー、有名レーベルのプロデューサーなど、とても幅広いです。年齢層でいうと、20代から40代でしょうか。若年層の方が抵抗なくセラピーを受け入れる傾向がありますね。
音楽業界は移り変わりも大きく、競争の激しい環境。特に表舞台に立つアーティストたちには、きっと特有の悩みがあるんじゃないかと思います。
成功を維持するプレッシャーや、ファンや世間からの評価、キャンセルカルチャーに対する恐れ、A&R(アーティストの発掘・契約・育成を担うレコード会社の担当者)との意見のズレ、パフォーマンスへの不安、アイデンティティの構築など、本当にさまざまです。さらに「自分には賞味期限がある」という感覚に陥ることもある。音楽業界で安心感を得ることは非常に希で、難しい。とても厳しい業界です。
となると、深刻なメンタルヘルスを抱えてやって来るクライアントもいる?
はい。すでにうつ病や双極性障害、統合失調感情障害などと診断されている人や、依存症を抱えた人などもいます。
週にどれくらいのクライアントがMITCを利用しているんですか。
セラピストによりけりです。週に12人を受け持つ人もいれば、25人受け持つ人もいます。全体の予約状況はだいぶ増えてきていますね。セッションを6ヶ月行うクライアントもいれば、6年行うクライアントもいる。それぞれが抱えるメンタルヘルスの問題の複雑さや目的・予算によって異なります。
カウンセリングまでの流れは?
クライアントからメールが届いたら、担当者か私のどちらかが対応します。まずはセラピーを受ける目的や予算についてなど、基本的な質問を投げる。次に、私がクライアントの要望に合わせて、セラピストをペアリングします。セラピストにはそれぞれのアプローチ方法があるので、相性を探るためにも、最初に何人かのセラピストとトライアルセッションを行ってもらいます。そして最終的にセラピストにとってベストなカウンセラーを見つけてもらい、本格的なセッションに入ります。
クライアントとセラピストをペアリングする際、気を付けていることはありますか。
クライアントのニーズに応じてペアリングするようにしています。女性セラピストを希望する場合は女性セラピストを、セラピーの目的がトラウマの克服であればトラウマを専門的に学んだカウンセラーを選択する。このようにセラピストの選択肢があるというのは、クライアントにとって重要です。
MITCのセラピストの一人は、レコード会社勤務の経験を活かしてバンド専門のセラピストとしてメンタルヘルス支援を行ったり、音楽業界によって燃え尽き症候群を感じている人々に独自のセラピーを提供していますよね。
MITCの強みは、セラピストそれぞれがこうした得意とする専門分野があることです。それにより、クライアント一人ひとりを深く理解できます。また様々な形の心理療法でアプローチしています。力動的・精神分析的な心理療法*、統合的心理療法**、 実存的精神療法***、行動療法****など。我々の仕事は、クライアントの体験に可能な限り寄り添うこと。彼らの目を通して世界を見るようにしています。彼らが付き合っている感情体験、そして感情を言葉にする核にある感情を捉えたいのです。
*過去の出来事と現在の心理状態や行動の繋がりなどについて話し、クライアント自身に性格や感情、あり方をじっくりと時間をかけて認識してもらう療法。
**単一ではなく様々な学派の理論や技法を、特定の系統的な仕方で組み合わせてクライアントによる効率的な活用を目指した心理療法。
***後天的な環境や過去にとらわれることなく、自らの決断や主体性の元に生き、自分を変えることのできる存在だという考えをベースにした心理療法。
****自身の思考や行動パターンを認識し、自分の認知や行動パターンを整え、生活を向上させる療法。
音楽業界人が抱えるありとあらゆる症状に、適切な療法を用いて対処しているんですね。近年、特に目立つ悩みやストレスってありますか?
昨今よく耳にするのは、オンラインで共有する仕事とプライベートの境界線が曖昧になってきたという若いアーティストの声です。最近では、アーティストがソーシャルメディアでプライベートを共有することが当たり前になってきましたよね。そのためどこまでコンテンツとして晒していいのか、または共有し過ぎてはいないかという悩みが多いです。
非常に今っぽい悩み…。ソーシャルメディア上に飛び交うネガティブなコメントも社会問題となっています。これに悩むアーティストには、どうアドバイスしますか。
向けられた批評に対して「自分自身をどこまで関与させるかはコントロール可能なこと」。そのようなアドバイスをします。
ライブ終わりにすぐにソーシャルメディアのタイムラインをスクロールしたら、ライブがうまくいったとしても自身の経験から遠ざかり、人の視点を通して自分自身をみ始めてしまうのです。
リリースしたばかりのレコードについて、終わったばかりのライブについて「自分はどう思ったのか」をまず考えなくてはならない。自分自身の考えと他人の考えを区別すること、そして自分の作品が万人の好みになることは不可能でそれでもよいのだ、ということを認識することが必要です。
私の友だちのミュージシャンは、エゴサーチをしないよう気をつけていると言っていました。これはいい心がけだといえますかね?
オンライン上で、自分は一体何を探しているのか。それを自問してみるといいんじゃないでしょうか。承認? それとも、繋がり? そして、他の方法(オンライン上での検索ではない方法)でも、同じことができるのではないか、と考えてみる。検索結果をスクロールするのが自分にとって、そして自分の今の心理状態にとって役に立つのか、逆に有害なのかを知る必要があります。
MITC創設時と現在で、音楽業界が抱える問題に変化はありましたか?
正直、「音楽業界人のメンタルヘルスの状況は良くなってきました!」とは言えません。パンデミックもありましたし。ただ、世間が持つMITCの認知度と、そのサービスへの評価は高まってきていると感じます。
実はいま、音楽業界のメンタルヘルスについてまとめた書籍『Touring and Mental Health: the Music Industry Manual』を製作中なんです。今年10月に出版予定で、なるべく多くのライブハウスの楽屋に設置し、そこでもより多くの人に知ってもらえたらなと考えています。
書籍の内容、気になります。
パフォーマンスへの不安や鬱の対処法、声・聴覚の健康やポルノ依存症などについてまとめた全31章の分厚い本です。先ほど話した、ソーシャルメディアとの付き合い方に関するヒントも載せてありますよ。他にもRadiohead(英ロックバンド)のドラマーPhilip SelwayやPixies(米ロックバンド)のフロントマンCharles Thompson IVなどたくさんのアーティストに取材しました。ウェブサイトからニュースレターに登録していただくと、販売開始のお知らせをお届けしますよ。
音楽業界人のメンタルヘルスを支えるべく、MITCは今後どういった活動を展開するのでしょう。
現在、心理教育に焦点を当てたオンラインコースの開発に着手しています。コースでは書籍で紹介している全トピックをカバーし、それぞれリソースと戦略を提供する内容にしたいと思っています。みんながみんなセラピストとのセラピーセッションを快く受け入れるわけではないので、こうした別のプラットフォームを考案したわけです。
我々は、音楽業界で働く人々のメンタルヘルスを支え続けたい。なるべく多くの人に、なるべく多くの助けを提供できたらと思っています。
Tamsin Embleton
音楽業界で働く人のための、セラピストとコーチが集結した団体「Music Industry Therapists & Coaches(MITC)」のファウンダー。ライブベニュー勤務やイベントブッカーなどとして10年間音楽業界で働いた後、大学でトレーニングを受け、病院で数年間働き、MITCを2018年に創立。自身もカウンセラーとして、多くのクライアントを持つ。
Music Industry Therapists & Coaches(MITC)
2018年に創立された、音楽業界人に特化したセラピストとコーチが集結した団体。英国と米国、ヨーロッパの一部に拠点を置く。所属するセラピスト全員が、音楽業界で最低5年の勤務経験がある心理療法士であり、その経験や療法から専門性の高いセラピーを施す。
All Image via Music Industry Therapists & Coaches
Words: Yu Takamichi(HEAPS)