政治的影響によって、アメリカのポップ・ミュージックなどが発禁されており、国営レーベル「Melodiya」からレコードの99%が発売されていたソビエト社会主義共和国連邦(以下、旧ソ連)。そのような厳重な体制の中、レントゲン写真をカッティングして制作されたレコード「ボーン・レコード」が出回るなど、知られざる興味深い歴史が満載。近年では、レコードマニアやDJにとって旧ソ連のレコードが人気で、ヒップホップではサンプリングソースとして重宝されることも。今回は、そんな旧ソ連(共産圏各国)のレコードにまつわるトピックスを深堀りし、ご紹介。
旧ソ連のロスト・ミュージック
世界中には眩いほどに音楽が溢れ、インターネットを介しさえすれば、誰しもが容易にあらゆる音楽にリーチすることが可能となった現在。国や時代を超えて音楽は聴き継がれ、そして体系的に語られ形成された、すでに十二分な厚みを備えた「音楽史」を自由気ままに享受することができる。まさに私たちはそんな音楽的飽食の時代を迎えたと言っても間違いないだろう。
ロスト・ミュージック。そんな現在においてもなお、世界と断絶するかのように隔てられ、ついぞ音楽史に書き込まれることのなかった、失われたひとつのシーンが確かに存在した。そのシーンの舞台は、かつて存在した超大国、旧ソ連。鉄のカーテンの向こう側で独自の音楽的生態系を育んだ彼の国は、長い時を経た今、音楽界最大のロスト・ミュージックとして大きな注目を集めつつある。
未知のシーンを発掘したアーティストたち
ヒップホップ誕生以降、知られざる音楽の鉱脈を掘り当てるのは、いつだってビート・メイカー、ないしレコード・ディガーだった。
旧ソ連の音楽とて例外ではなく、DJ Shadow、Madlib、50cent、Mobb Deepなど、ヒップホップのレジェンド・アーティストらは多くの旧ソ連製レコードを掘り起こし、サンプリングにより再構築、新しい音楽へと昇華した。そしてその中でもことさら大きな存在感を放ったのが、LA出身のプロデューサー/ラッパー/トラック・メーカーにして、かのエミネムのバックDJとしても知られる、The Alchemistだった。
彼は2012年に発表した作品『Russian Roulette』において、旧ソ連圏のアーティスト(ライモンド・パウルス、ソフィーヤ・ロタール、Arsenal、In Spe他)の楽曲を熟達したサンプリング・スキルでビートに組み上げ、クラシックと呼ばれるコンセプト・アルバムを創り上げた。そして何よりも特筆すべきは、一般的認知度など皆無に等しかった旧ソ連音楽に光を当てたシンボリックな作品として、今もなお多くのリスペクトを集め続けている。
ヒップホップ・シーンのアーティストたちがこうして旧ソ連で生まれた音楽を追い求めたのも、旧ソ連音楽が既知の音楽体系とは全く異なる刺激に満ちた音楽性を持っていたこと、そして容易にリーチすることなど到底叶わぬ、鉄のカーテンで遮られた未知のシーンだったからだろう。
ジャズやロックは「退廃的音楽」
かつての旧ソ連では、音楽において存在しないはずの国境線が明確に引かれ、国家による統制、特に西側音楽の徹底的な排除を国策としていた時代が存在した。第2次世界大戦後、ヨシフ・スターリン政権下においては、全ての音楽は検閲され、自国で認可した音楽ではない西側諸国のジャズやロックは「退廃的音楽」とみなされ、厳格に禁止されていた。
しかし、音楽への熱は古今東西変わらぬもの。一般大衆は秘密裏にBBCをはじめとしたラジオを傍受するなどして、少しずつ音楽への渇きを潤していたが、それも長くは持たず、音楽への欲求の高まりはピークを迎え、一部の者は危険を顧みず、レコードの密造・販売を行い始めた。
大量かつ安価に入手が可能で、素材としても適していた使用済みのX線フィルム(レントゲンフィルム)に溝を刻みこみ、ハサミで丸く切り取り形を整え、センター・ホールは燻らしたタバコで穴を開ける。そうして生まれたのが、特殊レコードの極北「肋骨レコード(Bone Music/X-ray Records)」だった。
そのすべては非合法なアンダーグラウンドなものだったため、取引は夜な夜な衆目を避けて落ち合い、トレンチ・コートの袖の下を通して丸めたレコードと現金をトレードする形で行われた。そして購入者も決してボリュームは上げずに、最大限に注意を払いながら、隠れるようにして音楽を噛み締めていた。
それでも当局に捕らえられ、強制労働収容所(グラグ)への収監される者も後が立たなかったが、この音楽への飽くなき渇望こそが、後の旧ソ連音楽シーンの発展において、その根底に流れる原動力となったに違いない。
国営レーベル「Melodiya」が誕生
60年代に入りレオニード・ブレジネフに政権が渡った頃には、国営レーベル「Melodiya」が生まれ、以降ソ連崩壊を迎えるまで、99%の録音物は国家の管理の下、録音・制作が行われた。そしてその頃にはロックやジャズといった西側音楽が一挙に流入しており、多くのアーティストたちは多大なる影響を受けたが、ソ連独特の音楽的土壌により、西側音楽の音楽体系とは全く異なる音楽が生まれていった。
ソ連音楽の母体となっていたクラシック音楽を始めとするアカデミックな音楽様式そのままに、音楽大学出身の選び抜かれた音楽的エリートたちが、10人や20人というさながらオーケストラのような編成で、ロックやジャズを演奏し始めた。
また当時世界最大の国土を誇った旧ソ連は、バルト三国から中央アジア、果てはモンゴルまで、地域差により音楽文化圏も大きく異なっていたが、各地の伝統音楽のエッセンスを取り込みながらも、国家による厳格な検閲と唯一の国営レーベルの管理というフィルターが通されたため、そこにある種強制的に統一感が生まれることになった。
なお、その頃もロックやジャズが全面的に許されていた訳ではなく、「社会主義リアリズム(※1)」に反した者たち、つまり西側音楽に寄りすぎた者たちは、次々と投獄の憂き目にあっていたという事実も記しておこう。
再評価の機運が高まる
すべての音源は国家により管理されていたが故、1991年のソ連崩壊以降、遺されたアーカイブのCD化を始めとする、デジタル化が全くと言って良いほど進まず、旧ソ連時代の音楽は長きに渡り省みられることなく埋もれる形となってしまった。
そのため、当時の音源を知りうる残された術は、レコードを掘り起こすことでのみ。しかし、特にクラシックを除いたジャンルは国外への流通量は決して多くなく、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本においても、取り扱うショップはほとんど存在しないと言っても過言ではないだろう。また、もし手に取ることがあったとて、キリル文字やグルジア文字に代表される、旧ソ連圏の言語の識別の難しさも手伝って、ソ連音楽へのアクセスには常に高い壁がそそり立っている。
そんな中、飽くなき探究心で掘り進めていったのが、前述した通り、DJでありレコード・ディガーたちだった。そして私も旧ソ連音楽に魅せられたいち愛好家として、独自に研究を進めるとともに、この音楽の素晴らしさをより多くの方に知ってもらいたい。そんな思いから、筆者は選りすぐったものに「RED FUNK」と新しく冠をつけ、自身のレコード店でレコードの販売を始め、フリーペーパーを制作・配布し、布教活動を始めた。
また、それと呼応するかのように、近年ここ日本では次々と関連本が出版され、各種イベントも開催されるなど、世界にも先駆けて再評価の機運が高まりを見せている。旧ソ連音楽、それは音楽の自由をかけた闘争の音楽史。あなたの固定概念を打ち砕く、全く新しい音楽との出会いを約束しましょう。ぜひ一度体感あれ!
Words&Photo:山中明